小心者なりの生き方。
世の中には二種類の人間がいるらしい。
強者と弱者。勝ち組と負け組。
たった一度の人生で、自分がどちら側にまわることになるのかは、神様だけが知っている。
競争社会なんて言われたって、何と戦っているのかも曖昧な毎日。
だけど、焦りだけは感じているのだ。間違いなく。
僕は正義を知っている。
それなのに自分の正しさは、少しも結果を残させちゃくれない。
他人は何にも分かってなどいない。
それでも何でも知っているようにふるまうことを恥とも思っていない。
そのうち自分もその「虚無感」の中にいることの楽さに気が付いて、あれだけ毛嫌いしていたはずの人間になっていく。
夢をつかみたいと願ったその手に残されたのは
「私は大人である」という免罪符だけ。
生活は問題なく続いています。
欲しいものはそれなりに手に入ります。
だから僕のことは、きっと勝ち組でも負け組でもない一般人にしておいてくれないか。
〇
なんて本気で考えている人はどれくらいいるんだろうか。
まぁ、ここまで何となくありそうなことを書いてみたのだけれど。
そもそも人間とは葛藤する生き物なわけだから、強面の上司に詰問されて困り果て、面と向かって言えない愚痴を酒で紛らわせたり、人のことを平気で利用する同期の、下心丸出しの提案を断り切れない自分に辟易したりするのは当然だ。
小心者の小市民。それでも愛すべき一人の人間。
それが今日の日本人なのではないだろうか。
なぜ突然こんなことを書きたくなったのかというと。
理由は単純で
という海外の映画を観たからだ。
まさしくコメディの王道というか、会話のズレをうまく利用した笑いは、いまのアンジャッシュ的なコントの源流である。
筋書きとしては
ビリー・ワイルダー監督・脚本による都会派コメディの代表作。出世の足掛かりにと、上役の情事のためにせっせと自分のアパートを貸している会社員バド(レモン)。だが、人事部長のシェルドレイク(マクマレイ)が連れ込んで来たエレベーターガールのフラン(マクレーン)は、バドの意中の人だった……。
というシンプルなものだ。
詳細はネタバレになってしまうので直接原典を当たってもらうとして。
この映画が面白いのが、この映画の主人公バドは、浮かれ頓智気というか、目先のことばかりを追いかけるそれこそヒーローとは言い切れない器の狭さの人物で、それと同時に、底抜けに善良な人間であることが魅力でもある「いい奴」であることだ。
というのも、それなりにいい奴が、それなりに報われる話を面白く描くことは、とても困難だと僕は思っている。
『とにかく日常生活にはあり得ないような激しい思いと、その胸キュンが、ある種の夢だと思うんですね。視聴者は、激しい恋はそう簡単に手に入らないから、その夢を提供したいというつもりでドラマを描いたし、それがドラマの使命だと思うんです』
という言葉は大石静先生のものです。
ありふれた勝利に、カタルシスを得ることができるのはひとえに語り手の技術なのだ。
ともあれ、少しづつ生活の形が戻っている中で、ルーティーンに潰されてしまいそうになってしまっている人にこそ、見てほしい作品でございます。
今僕が一番欲しいもの。
それは「白黒つけようとしない眼差し」です。
おしまい。