歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

泣き寝入り

 

 傷だらけの両手隠して

 痛みには慣れてるなんて 

 そんなこと言わないで

 とめどなく 流れる涙こそ

 本当の君だから 

 世界の半分は悲しみでできてる

 嬉しいことだけ 望んでいるのなら

 この世は 随分辛いことばかりだ

 


 どうせなら朝まで 泣き寝入りしよう

 本気で 枕を抱きしめながら

 そしたら朝焼けが

 きっと頬を撫でてくれるだろ

 世界は偶にひとりぼっちに優しい

 


 隙だらけの自分隠して

 寂しいのには慣れてるなんて

 そんなこと言わないで

 とめどなく 流れている涙は

 受け止めるものだから

 


 世界の半分くらいくれてやれ

 褒められることだけ 望んでいるのなら

 この世は随分期待外れだ

 


 どうせなら朝まで泣き寝入りしよう

 本気で 枕をずぶ濡れにするまで

 そしたら朝焼けが

 全て乾かしてくれるだろ

 世界は偶に凄く面倒見が良い

 


 答え合わせに一生懸命

 神様の採点 誰が褒めてくれるわけもなく

 その時に限って思い出すのは

 お気に入りのメロディや

 何気ないあの人の仕草

 


 世界の半分は悲しみでできてる

 嬉しいことだけ 望んでいるのなら

 この世は 随分辛いことばかりさ

 

 どうせなら朝まで 泣き寝入りしよう

 本気で 枕を抱きしめながら

 そしたら朝焼けが

 きっと頬を撫でてくれるだろ

 世界は偶にひとりぼっちに優しい

 世界は偶に君だけに優しい

さようなら、全てのエヴァンゲリオン【シン・エヴァンゲリオン感想】

 

朝一の映画館で本日公開のシン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきました。

 

超絶ネタバレありの感想になりますので、まだご覧になっていない方はバックの方をお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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率直に言おう。

僕はこの映画を見終わった後、めちゃくちゃ落ち込んでいた。

 考察が外れたとか、期待した程では無かったとかそう言う意味ではない。

 シン劇場版のテーマ「喪失とその克服」に打ちひしがれていたのである。

 そう、破れた初恋も、その一つ。

 端的に言えば、アスカとシンジのヒロインレースの結末に涙していたのである。

 とはいえ、詳しくは後述するけれど、この結末もよく練られていて、納得はできる。四半世紀ものエヴァの物語の終わりとしては、十分な出来だったと思う。

 そして作品全体を俯瞰して思うのは『エヴァは最早庵野監督のものであって、庵野監督のものではない』

 ということだ。作品が作り手の下を離れ、その影響力が雪だるま式に膨らんでゆく現象は、ルーカスのスターウォーズシリーズにも見られる。

 この新劇場版シリーズは、ひとりでは手に負えないほどに成長した怪物コンテンツ(子)と、どう対決してゆくのか?という監督自身(父)の挑戦の物語でもあった。

 

 恐らくシンジがエヴァとの決別を選択することは、初期段階から大きな変更は無かったに違いない。

 ただ、「q」での大幅な世界設定の変更にみられるように、監督自身が考えもしなかった現実世界での影響も大きかったのだろう。特に序盤での、黒いプラグスーツの綾波の物語は、東日本大震災が無ければ存在しなかったはずだ。正直な話、黒綾波のエピソードは、映画全体の中で最も印象的だったと言っても良い。

 qまでの評価では、庵野監督が大幅にシナリオを変更した理由を考察することは難しいとされていた。しかし、ニアサードが震災の擬似的ディザスターとして用いられただけなのではないかと言う批判に対しては、この物語は十分に説明できる出来だった。

 天災によって全てを失った人達の、それでもなお生きようとする力強い姿勢と優しさは、トラウマを負ったヒーローを立ち直らせるのに効果的で、ただ考え納得するだけだった旧劇場版のシンジとの大きな差でもある。恐怖だけではなく、そこから名もなき人々(今回はトウジや○ンスケに象徴されていたが)の賢明な姿を描くこと。これは、震災を経た今だからこそ描くことが出来る、作品の父として成長した庵野監督の「創作」に対する責任の取り方でもあったのではないだろうか。

 

 最終的に立ち直ったシンジは、自らの責任を引き受け、解決に向けて驚くほど直線的に進んでいく。これは、シンジ自身も語っていた通り、「破」でのアスカに対する行動とは全く異なったものである。だがこの変化は、恐らくこれは序破急のプロットの中では、かなり初めから決まっていたことだったように思う。

 つまり「破」でアスカを一旦物語から退場させたことは、旧劇場版とは異なったシンジとの関わりを持たせる為であり、またそれは新劇場版における「古いキャラ」との訣別を図る意図があったのだ。これは震災による脚本変更よりも以前に、物語を展開する上で初めに決まっていなければ出来ないことで、アスカや綾波と言った虚構(キャラ)に囚われたオタク達の、喪失による逆説的解放は、初めから(少なくとも破の時点で)用意されていたという事である。

 

 シンジは綾波を失うことやかつて好きだったアスカやミサトとの別離から立ち直り、自分の現実(宇部新川駅)を生きはじめる。つまり、このブログの冒頭で書いた通り、このシン劇場版を見終わった後の初恋の喪失感に似た感情は、庵野監督の目論見通りだったと言う訳である。(でも特典は心抉られるぜ…捨てられない昔の恋人との写真みたい…)

 虚構から解放され、そこからどう生きるか?という問い。

 旧劇場版でのnerd(ナード)に対する当てつけ(あるいは同族嫌悪?)から、観客に問う姿勢へ。これもまた、表現者としての庵野監督の進化と言えるだろう。

 また、13号機と初号機が対峙するといういわばクライマックスの場面で、特撮的手法を採った劇中劇であるかのような演出がなされる。ここで、「エヴァとは虚実皮膜に存在し、作り物であると同時に本物である」という庵野監督自身のエヴァに対する価値観が見て取れる。

 

 自己表現の先端的手法としてのエヴァは、監督が意図した以上に多くの人々を巻き込んできた。そして、取り返しのつかない影響を与えてしまったことへの贖罪と責任感。ニアサードとシンジの関係性は、エヴァを作ってきた監督と作品の関係性と相似している。

 再び自分自身の手によって、エヴァに囚われた人々を、エヴァから救う。庵野監督の挑戦がどれほど果たされたかはまだわからないが、長い時間をかけてこの巨大な虚構と立ち向かってきたその姿勢に、僕は感服せざるを得ない。

 

 エンターテイメントとして正解だったのかは、多くの人が見て決めればいいと思う。これまでのエヴァとは一味?違った壮大なSF設定も、今後の新しいエヴァを作る上でヒントにもなりうるだろう。

 庵野監督自身、新しいエヴァを下の世代に作って欲しいということをインタビューで語っていた。それは本心だと思う。ラストのシーンは明らかにカラー以外のスタジオが入って作画していた。

 

 庵野監督はこのシン劇場版で、碇シンジの物語に決着をつけると同時に、自ら型を破ってみせたのだ。

 旧アニメ版から四半世紀。

 僕達はもういい大人になり、色んなものを失ってきた。好きだったあの子は別の誰かと一緒になり、守ってくれる誰かに頼ることも出来ない。

 それでも、いま出来ることを続けていくしかない。願はくは、美人で胸の大きい彼女と共に。

 エヴァのその先へ。僕たちの本当の新世紀は、大きく変わろうとしている世界全体の時流に乗って、今からはじまるに違いない。

 

おしまい。

 

 

※個人の感想です!

向田邦子展に行ってきた。

 

 一度も会ったことがないのに、僕はその人の事をよく知った気でいる。本の中で想定していたよりも少しだけ高かった彼女の声は、雨の中展覧会へ足を運んだ客を持て成すように迎え入れていた。

 2021年は、向田邦子が亡くなってから40年が立つ年である。そんな折の節目に、彼女についての展覧会が開催されることになった。脚本家を目指す上でかの人から多大な影響を受けた僕は、この機会を逃すわけにはいくまいと、はるばる都会へ繰り出した。

 展覧会のあった青山という街は向田邦子が多くの時間を過ごした場所であり、"庭のように慣れ親しんだところ"なのだそうだ。表参道駅出口からすぐの場所にある会場のスパイラルガーデンは、その中でも特に都会的だった。案内をしてくれる人は皆、未来人みたいなポンチョ(あるいはワンピース)を身につけていた。不定形なデザインで溢れたお洒落なそのギャラリーについて、本人が見たらなんて言うだろうな、などと勝手に考えたりしていた。きっと貧乏性の自分には身に余ると口で言いはしても、美的センスに優れた内心では、結構喜んでいたりするのかもしれない。

 ともかく、展覧会には、最終日だということもあるのか、沢山の人が訪れていた。入場待ちの列は建物の外にまで続いている。そして、並んでいた人は、その多くが女性だった。向田邦子という存在が現代に至るまでどのようなアイコンであったのかということを改めて考え、僕は洒脱なギャラリーの扉を開いた。

 今回の展示は作品の生原稿や、生前大切にしていた食器や洋服などが中心だった。往年のファンにとっては彼女の生活の息遣いが聞こえてくるようであり、ノスタルジーを感じさせるものだったに違いない。ファンとしては新参者である自分自身も、エッセイの中で登場した食器や愛猫カリカについての原稿を見た時には浮き足立ってしまった。大切にしていたという万年筆を見て、同じ道具を使うことが出来るだけの立派な作家になるぞと意気込んでみたりした。

 多くの思い出の品々が並んでいたその中で、僕にとって最も印象的だったのは、一枚の写真である。ギャラリーに入ってすぐのところにあったそれは、実際に本人がアフリカで撮ったものらしい。エッセイにあったベルギーのお祭りの様子を写したものや、自画自賛したであろう技巧的な構図のナマケモノの写真などがあるなかで、それでも一番好きだったのは、サバンナの雄大な景色と共に大きな欠伸をしている一匹のライオンの写真だった。展示では凛々しい姿でシャッターに収まっているライオンの写真が他にも幾つかあったのだけれど、その中の一枚だけが、気の抜けたような欠伸のそれだった。

 僕はその写真の中に、向田邦子が作品を作りだす中で見出そうとしていたものを感じ取った。あの丁寧な仕方で、人間模様を描く過程で探していたのは、きっとこのライオンの欠伸の様な、愛すべきひとつの仕草だったのかもしれない、と。

 現代アートの延長にあるような空間で、昭和の名作の生原稿を見る。それは、没後40年が経っても、多くの人を魅了し続ける向田邦子にしか出来ないことなのだろう。

 変わっていく時代の中で、変わらないままの人間のエゴと優しさ……今回の展覧会で僕が受け取ったのは、そういった当たり前のものを見守り続けなさいという、脚本家の大先輩としての重要な忠告と、人生の大先輩としての温かな励ましなのである。

 

おしまい。

『生の目的〜他人の視線の中で生きること〜』

 

 僕が他人を嫌うことが出来ないのは、アリの巣の複雑さに愛好家が存在するように、其々の人生の中で複雑な模様を作り出す一匹の動物としての他者に興味があるからだ。

 他者が生み出す模様は、完全に理解できる場合だけが面白いわけではない。観察者である自分にとって、それは読み方を知らないだけで何らかの意味を持った象形文字のように見える時もあれば、浜辺に打ち寄せた波の形の様に、迫りはしても全く意味を見出すことが出来ないこともある。そして最も重要なことは、それぞれの模様の価値はいずれも全く同等であり、主体による読解の有無がそのまま優劣を示すことは無いということなのだ。

 人間はまた、自らの生き方や人生について自問する動物でもある。実存の中で生きることは、無用の困難に立ち向かっているだけの様に思えてくる。だが、結局はこの場合も、他者の目線からすれば、主体はなにかしらの模様を描いているに過ぎないのだ。

 死ぬまで生き、その中で、知らずのうちに描いていた模様の解釈を他者の視線に委ねる。そしてその覚悟を生きているうちに獲得することこそ、僕にとっての生の目的なのである。

傷つかないで済むように。

 

大人に片足を突っ込んだ年齢になって、ようやくわかったことがある。

生きるのって、かなりつまらない。

だからといって、童心に帰れば解決するのかといえば、そんなに単純な話でもない。

お酒の味も女の人の肌の味も、知らなかった世界に戻ることは、凡俗な僕にはもうできなくなっている。

新鮮な刺激を求めて、さほど興味もないのに、身近な人間を詮索したかと思えば、自分の悪口がささやかれていそうなら、傷つく前に撤退する。

自分の知っている世界が、自分の知っているままに動いてほしいと思う。

知らない世界に飛び立ちたいと思っていたはずの自分が、いつからこんなことを考えるようになってしまったのだろう。

きっと、自分に自信があるとかないとか、そんな話ではないのだ。

技巧的な人付き合いだけが、自分の知らない間にうまくなっていく。

本当に、知らない間に。

小学生の時、俺の人生はいつから間違えた方向に進んでしまったのか、などというオジサンの言っていることが、よくわからなかった。

間違えたら直せばいいじゃん。と、親に守られた存在は嘯いていたのである。

けれど、現世で四半世紀以上を過ごしてみると、本当にちょっとずつの間違いが、わずかに、けれど確実に、僕の理想からほど遠い方向へと導いていた。

 

自分の知らない自分、それも唾を吐きかけたくなるような作り笑いをした自分が、知らぬ間に僕の人生を大手を振って歩いていたのだ。

 

「宙船」という中島みゆきの作詞した歌詞、有名なものだけれど、「お前が消えて喜ぶものにお前ノールを任せるな」という部分。

今も大いに共感できるけれど、本当に自分のオールを任せてはいけないのは、空虚な作り笑いを浮かべた自分自身なんじゃないか。

 

それじゃあ、本当の自分ってなんだろう。

 

きっとそれは、「自分の中の最も弱く、最も醜い自分」だと思う。

競争に敗れ、蔑まれ、馬鹿にされるような自分のことだ。

嫉妬し、怒り、すきあらば自己憐憫に浸る僕のことだ。

 

傷つかないで済むように、プライドが守られるように、上手に生きることは、間違いだ。

これは断言する。

日和見主義で他人に流されやすい僕の、唯一の主張だ。

 

人生はつまらないものだ。元からそうだ。動かしようはない。神様も死んだ。

この現代社会に生きて楽しいと思う人間など、資本主義社会の甘言に騙されているだけのめくらでしかない。

 

それでも、この苦しみを隅々まで味わい尽くし、自分が成し遂げたいと思うことに対して足を引っ張ってくる他人、仲良しこよしを強いる道徳を踏み越えることができれば、きっとこの生は誰のものでもない、自分自身の手によって形作られていく。

 

 

つまらない人生を歩む、他ならぬあなたへ。

僕は先に行きます。

 

おしまい。

 

理想の社会。

 

僕にとっての理想の社会、それは『自分には何の才能もありません』と高らかに言える社会だ。

全てが競争で決まるこの世界で、自分を強く見せることは生き残るためには不可欠だ。いつまでたってもボンクラではいられない。

本当にやりたいことを我慢して口に糊をする人のほうが、本当にやりたいことを探して口に糊をしている人よりも偉い世の中に、僕たちは生きている。

人間は他の動物とは違い、高い知能を持っているらしい。文字を使ったり、戦争をしたりして、どうにかこうにか、人間は特別な存在であると思い込む。それなのに、結局やってることは、権威の誇示と富の独占。動物とどこが違うのだろう。

こんなどうしようもない場所を、本当に愛だけで救えるのか?愛は地球を救うのか?スローガンだけが立派なのにはもううんざりだ。

 

声を大にして言う。

『僕には何の才能もありません』と。

一体どれくらいの人が声をかけてくれるだろう。

『それでもいいのだ』と。

 

声を大にして言おう。

『それでもいいのだ』と。

何もないところから始めよう。

怖くて不安な自分から歩きだそう。

みんなと同じ場所にいる必要はないんだ。

囲いを作った誰かの両腕の外側で、僕は君に伝えたいのだ。

その先に、もっと良いものがあるぞ、と。

 

おしまい。

子供っぽいという言葉が。

 

子供っぽいという言葉が悪口なら、大人っぽいという悪口だってあって良いはずだ。

大人は子供にこのことを言われると、途端に怒り出す。子供はこれから大人になれるから、大人に悪口を言われたって黙っている。でも大人は、もう他になれるものがない。逃げ道がない。だから怒るしかないのだ。

本当の大人になる方法は、子供の自分だけが知っている。大人の自分が、大人の自分としては判断するのを、一度やめてみたら、どうなるだろう?

あの時仕舞った色鉛筆を、また使いたいと思うかもしれない。あの時誰かに言われたありがとうを、思い出すかもしれない。

今の自分は、大人っぽいだけのか、大人なのか。

子供の自分に聞いてみよう。自分の中の子供は、未来の自分に頼られるのを、ずっと待っている。背伸びをして待っている。

 

おしまい。