歓談夜話

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さようなら、全てのエヴァンゲリオン【シン・エヴァンゲリオン感想】

 

朝一の映画館で本日公開のシン・エヴァンゲリオン劇場版を観てきました。

 

超絶ネタバレありの感想になりますので、まだご覧になっていない方はバックの方をお願い致します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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率直に言おう。

僕はこの映画を見終わった後、めちゃくちゃ落ち込んでいた。

 考察が外れたとか、期待した程では無かったとかそう言う意味ではない。

 シン劇場版のテーマ「喪失とその克服」に打ちひしがれていたのである。

 そう、破れた初恋も、その一つ。

 端的に言えば、アスカとシンジのヒロインレースの結末に涙していたのである。

 とはいえ、詳しくは後述するけれど、この結末もよく練られていて、納得はできる。四半世紀ものエヴァの物語の終わりとしては、十分な出来だったと思う。

 そして作品全体を俯瞰して思うのは『エヴァは最早庵野監督のものであって、庵野監督のものではない』

 ということだ。作品が作り手の下を離れ、その影響力が雪だるま式に膨らんでゆく現象は、ルーカスのスターウォーズシリーズにも見られる。

 この新劇場版シリーズは、ひとりでは手に負えないほどに成長した怪物コンテンツ(子)と、どう対決してゆくのか?という監督自身(父)の挑戦の物語でもあった。

 

 恐らくシンジがエヴァとの決別を選択することは、初期段階から大きな変更は無かったに違いない。

 ただ、「q」での大幅な世界設定の変更にみられるように、監督自身が考えもしなかった現実世界での影響も大きかったのだろう。特に序盤での、黒いプラグスーツの綾波の物語は、東日本大震災が無ければ存在しなかったはずだ。正直な話、黒綾波のエピソードは、映画全体の中で最も印象的だったと言っても良い。

 qまでの評価では、庵野監督が大幅にシナリオを変更した理由を考察することは難しいとされていた。しかし、ニアサードが震災の擬似的ディザスターとして用いられただけなのではないかと言う批判に対しては、この物語は十分に説明できる出来だった。

 天災によって全てを失った人達の、それでもなお生きようとする力強い姿勢と優しさは、トラウマを負ったヒーローを立ち直らせるのに効果的で、ただ考え納得するだけだった旧劇場版のシンジとの大きな差でもある。恐怖だけではなく、そこから名もなき人々(今回はトウジや○ンスケに象徴されていたが)の賢明な姿を描くこと。これは、震災を経た今だからこそ描くことが出来る、作品の父として成長した庵野監督の「創作」に対する責任の取り方でもあったのではないだろうか。

 

 最終的に立ち直ったシンジは、自らの責任を引き受け、解決に向けて驚くほど直線的に進んでいく。これは、シンジ自身も語っていた通り、「破」でのアスカに対する行動とは全く異なったものである。だがこの変化は、恐らくこれは序破急のプロットの中では、かなり初めから決まっていたことだったように思う。

 つまり「破」でアスカを一旦物語から退場させたことは、旧劇場版とは異なったシンジとの関わりを持たせる為であり、またそれは新劇場版における「古いキャラ」との訣別を図る意図があったのだ。これは震災による脚本変更よりも以前に、物語を展開する上で初めに決まっていなければ出来ないことで、アスカや綾波と言った虚構(キャラ)に囚われたオタク達の、喪失による逆説的解放は、初めから(少なくとも破の時点で)用意されていたという事である。

 

 シンジは綾波を失うことやかつて好きだったアスカやミサトとの別離から立ち直り、自分の現実(宇部新川駅)を生きはじめる。つまり、このブログの冒頭で書いた通り、このシン劇場版を見終わった後の初恋の喪失感に似た感情は、庵野監督の目論見通りだったと言う訳である。(でも特典は心抉られるぜ…捨てられない昔の恋人との写真みたい…)

 虚構から解放され、そこからどう生きるか?という問い。

 旧劇場版でのnerd(ナード)に対する当てつけ(あるいは同族嫌悪?)から、観客に問う姿勢へ。これもまた、表現者としての庵野監督の進化と言えるだろう。

 また、13号機と初号機が対峙するといういわばクライマックスの場面で、特撮的手法を採った劇中劇であるかのような演出がなされる。ここで、「エヴァとは虚実皮膜に存在し、作り物であると同時に本物である」という庵野監督自身のエヴァに対する価値観が見て取れる。

 

 自己表現の先端的手法としてのエヴァは、監督が意図した以上に多くの人々を巻き込んできた。そして、取り返しのつかない影響を与えてしまったことへの贖罪と責任感。ニアサードとシンジの関係性は、エヴァを作ってきた監督と作品の関係性と相似している。

 再び自分自身の手によって、エヴァに囚われた人々を、エヴァから救う。庵野監督の挑戦がどれほど果たされたかはまだわからないが、長い時間をかけてこの巨大な虚構と立ち向かってきたその姿勢に、僕は感服せざるを得ない。

 

 エンターテイメントとして正解だったのかは、多くの人が見て決めればいいと思う。これまでのエヴァとは一味?違った壮大なSF設定も、今後の新しいエヴァを作る上でヒントにもなりうるだろう。

 庵野監督自身、新しいエヴァを下の世代に作って欲しいということをインタビューで語っていた。それは本心だと思う。ラストのシーンは明らかにカラー以外のスタジオが入って作画していた。

 

 庵野監督はこのシン劇場版で、碇シンジの物語に決着をつけると同時に、自ら型を破ってみせたのだ。

 旧アニメ版から四半世紀。

 僕達はもういい大人になり、色んなものを失ってきた。好きだったあの子は別の誰かと一緒になり、守ってくれる誰かに頼ることも出来ない。

 それでも、いま出来ることを続けていくしかない。願はくは、美人で胸の大きい彼女と共に。

 エヴァのその先へ。僕たちの本当の新世紀は、大きく変わろうとしている世界全体の時流に乗って、今からはじまるに違いない。

 

おしまい。

 

 

※個人の感想です!