歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

One of themの自己陶酔。

 智に働けば角が立つ。情に棹せば流される。時には他人が馬鹿に見え、時には自分が世界で最も愚かな存在に思えてくる。

 と、まぁここまで漱石草枕の冒頭で言ったわけではないだろうけれど。

 現代社会に生きる僕としては、どうしても矛盾を抱えずにはいられない。この世間じゃひとりひとりが大切だと言いながら、集団に馴染めない存在はどうやら次第に疎外されていくみたいだ。勿論、納得して組織に従っている人がそれほど多数派であると思っているわけでもないけれど。みんなそれなりに不満を抱えて生きているし、理不尽は無限に湧き出てくる。

 それでも僕は、そんな風にして社会と個人の隙間に生きるようなことは出来ない。かといって、自分がひとりで独立して生きていくことができるほどの才能があるのかと言えば、そういうわけでもないのだけれど。智に働けど角立たず、情に棹せど誰も僕のことなどに興味はない。ただの大きなお世話に終わるのが関の山だ。

 あまりの中途半端、無力感に泣きたくなる。

 才能のない天才肌。自己評価と態度だけはエジソン並み。あぁ、悲惨な存在だ。目も当てられない。

 自分のことを諦めたくはないけれど、自分の何を諦めたくないのかさえもうわからなくなってしまった。何をすれば努力と言えるのか。

 自分が可哀想で仕方がない。だけど僕は自分のことを可哀想だと思っている奴が大嫌いだ。自分に甘く、他人に厳しい。はい、笑ってしまうほどダメな人間です。

          ○

 世の中甘くないという奴が一番世の中を苦くしている。社会的な後ろ盾が無くして何かが出来る人間などどれほど存在するのだろう。

 夢を諦める平均年齢は24歳らしい。それでいいのか、日本。

          ○

 ボブ・グリーンのエッセイに凝る今日この頃。原書を買い喫茶店でこれ見よがしに写経をする。なんかめっちゃ頭の良い人になった気分。気まぐれに隣の席の人のMacBookを覗く。英語で医学論文ぽいものを書いている。…本当スンマセンした。

          ○

 この世に存在する最大の罪は他人の意思を挫くことだと思う。殺人が何故許されないのかという考えにもこれは当てはまる。法律が無くたって人は殺せない。他人の未来を奪っていい理由などこの世のどこにも存在しない。

 冷笑主義は他人の未来をいとも簡単に奪ってしまう。自分が成功しなかった理由が万人に当てはまると思っていたら大間違いだ。

 君よ、他人の意思を挫こうとするな。

               ○

 幸せとは何かと問われれば、僕は少しだけひとより多くの答えを持っているような気がする。と言ってもそれは多寡の問題で、大小を問われれば答えに窮してしまうのだけれど。

 僕の幸せ、それは買い食いだ。

 良い家に住むより、ボロい場所に寝泊まりして、あとはずっと食べ歩いていたいと思う。

 昔恋人がいた時、興味深かったのは、ひとりで食べ歩くのと誰かと一緒に食べ歩くのとでは、同じものを食べてもその印象が随分と変わるのだと知ったことだった。おいしさは変わらなくても、記憶の残り方が違う気がする。

 横浜中華街、江戸清の豚まん。

 あの後もう何度も豚まんを食べた。でもやっぱりどこか違うのだ。おいしいけどね。

 彼女は元気にやってるだろうか。きっとそうだ、風邪だけはひかない人だったし。

 ふとした瞬間に反芻できる思い出の数々。これもまた、僕の幸せと呼べるのかもしれない。

 

 おしまい。

画伯

 

 ちっとも上達しない。画力の話である。

 昔から驚くほど絵が下手だった。犬を描けばば干し柿になり、ドラえもんを描けばほっかむりをしたコソ泥になる。伝わらない文章が悪ならば、伝わらない絵は罪であろう。その両方を科された僕は、一体前世ではどれくらいの大罪人であったのか。

 とにかく笑われることはあっても、笑えないくらいの画力なのだが、特に困るのが地図である。近くの駅までとかならいざ知らず、口頭で説明するのが難しいような道のりとなればお手上げだ。道を表す線がミミズの様に曲がっているのはいいとしても(よくない)、僕の地図が使い物にならないのには、画力そのものの問題と、もうひとつの致命的な理由があった。

 縮尺がめちゃくちゃなのである。

 試しに渋谷駅近辺の地図を描いてみる。ここがJR、ここがハチ公、あそこはセンター街に道玄坂のラブホ街だ!などとやっていると、地理に煩い人ならすぐにいても立ってもいられなくなるに違いない。JRの改札口からタワレコまでの道のりを基準に考えると、駅前の交差点は狭すぎるし、ハチ公広場は本物の倍の広さである。要するに、主観的な印象を中心に地図を作るので、再現性が低くなってしまうのだ。

 絵や地図を描いてみる時に大切なのは、空間認識能力はもちろんのこと、頭に浮かんでくるイメージに頼りすぎないということなのかもしれない。ものを描くには、観察と再現性が重要なのだ。つまり鑑賞する人と製作者の間には、それがどこまで現象的な現実に向かって描かれてたのかを示す、共通の物差しが必要なのである。下手な人の絵は対象そのものが持つ説明能力(特徴)を捉えきれておらず、その解釈が鑑賞する人の想像の中に溶け出してしまう。

 それでもこの画力のなさを無理矢理擁護しようとすれば、こう言えなくもない。一切の間主観的特徴やリアリティを見ている人に提供しない(できないだけなんだけど)僕の絵は、あるいは不条理絵画としてピカソやダリと並び、新たな美術流派を生み出す可能性を秘めているのだ…といっても、その正当な評価を目の当たりにする為には、末代まで転生を繰り返した先の未来まで待たなければならないのだろうけれど。

 

 おしまい。

雨の日に考えたこと。

 

 心待ちにしていた休日も、こう雨ばかりでは気分も落ち込んでくる。

 それでも無為に過ごしてしまうのもったいないので、最近なんだかたるみ気味な自分自身を奮起させるために、なんの脈絡もないけれど『これまで僕はどんな人のことを好きになってきて、どんな人のことを尊敬しているのか』を考えてみた。

 


 ご飯を食べるとき、誰もみていない場所でも「いただきます」と言える人のことが好きです。

 周囲に流されず、共感を強要するのでもなく、自分の意見を素直に言える人のことが好きです。

 人の悩みを一刀両断して、解決した気にはならない人を尊敬します。

 


 こうして書き出してみると、ひとつひとつは、当たり前のことだ。

 だけどその当たり前を、当たり前にする為にはどれほどの葛藤があったのだろう。

 立派な人たちが立派なのは、心の奥では冷や汗をかきながらでも、少しずつ自分の「当たり前」を増やしてきたからだ。

 そしてそれこそが、人間の成長なんじゃないか。

 そうだ、やっと気がついた。

「優しさ」を目に見えるものにするのなら、それはきっと「ふるまい」ということになるのかもしれない。優しさとは、難しいふるまいを、当たり前のようにやってみせることなのだ。

 

個人的な話になってしまうけれど、僕は真実を共有することだけが、優しさだと思っていた節がある。どうやらその考えを、変えるべき時期がやってきたのかも知れない。

 

 せっかくの休日は雨だったけれど、雨の日には気がつくことも多い。古くからは晴耕雨読とか言ったりするし。外に出られないのは、そこが良いところなのかもしれないな。


 雨、あめ、飴。

 

 自分にとって大事だと思えることを、口の中の飴玉を舐めるように確かめていると、なんだかやる気が出てくる気がします。

 


 おしまい。

ハムスターを食べる。

 

 去年の夏のある日、連日の台風の影響による野菜の値上がりに怒った父が、地元のホームセンターでトマトの苗木とナスの種を買ってきた。自宅の庭を開墾して家庭菜園をはじめると言うのである。

 30度近い気温の中、現在55歳になる父が、北海道を舞台にしたホームドラマで出てきそうな大きな鍬を使って庭を耕している。タオルを首に巻きつつのツナギ姿が妙に板についていて面白かった。僕はクーラーの効いたリビングでガリガリくんを食べながらその景色を眺めていた。

 ビギナーズラックなのか父の天賦の才能なのかはわからないけれど、その植えた作物達は一夏をかけて大いに成長し、ツクツクボウシの声が聞こえなくなってくる季節の終わり頃には、わずか2畳程の庭で育ったとは思えないほどの収穫が我が家にもたらされた。

 いずれの野菜も表皮がパリッとして瑞々しい。育ち盛りの高校生である下2人の弟たちは、我先にと手を伸ばし、よく洗いもしないで食べている。普段は父に無関心の母も、この時ばかりは、家計の節約に役立ったと言って現金にも喜んでいた。ただ一人僕だけは、その野菜を好んで食べるということはしなかった。

 まだ小学生の頃だから、10年以上前のことになるだろう。シェイクという名前のジャンガリアンハムスターを実家で飼っていたことがある。彼はとある不慮の事故で急死してしまったのだが、その責任は僕にあった。普段飼っているケージを掃除している最中に、直射日光の当たる場所に仮の住まいを置きっぱなしにしてしまったのである。日陰もなく、ガラスでできた仮住まいは短時間で室温が上昇したに違いない。目を離した僅か10分の間にハムスターは熱中症になり、呼吸をしなくなっていた。

 そして、赤紫色をした茄子が植わっていたその畝こそ、僕がシェイクを埋葬した場所だったのである。

 動物を飼うのは、我が家では珍しいことだったので、シェイクはそれなりの寵愛を受けていたように思う。わざとではないにしろ1つの命を奪ったという罪悪感は、小学生の身にもしっかりと感じ取ることができた。愛すべき小家族の急逝に両親は無言を貫き、弟たちは泣いていた。過ちはひとつでも、それを謝りに行くべきところは沢山生まれてしまうのだということを僕はこのことから学んだ。

 そんな事があったので、僕は庭で採れた野菜を食べる気がしなかった。正直な気持ちを書けば、『怖かった』のである。殺した家族を間接的にしろ栄養にすることもそうだし、その土にはシェイク怨みのようなものが込められているような気もしたし、なにより墓のことを覚えていたのは僕だけだったのだ。

 「亡くなった人も、誰かの胸の中に生きている」だなんて、映画なんかではよく見るセリフである。

 

 シェイクは2度死んだ。一度は僕が殺したが、もう一度は……。

 

 おしまい。

 

「猫的酒気帯回想録」

酩酊は人間だけに許された快楽に非ず。これは猫の嗜好においても好ましいことのひとつである。今宵は家主の目を盗んで「山ねこ」の瓶を開けた。今この六畳一間には吾輩以外の生き物はおらぬ。けれどもいつ人間が帰ってくるか知れぬ。ゆえに駆け足の語り口になるが許してほしい。吾輩は唯、人間の日々の苦労と、この狭い世間に生きる数寄者の野次馬精神に、何の腹の足しにもならぬ喋りにて報いようと努めるのみである。

 

森羅万象に筋書など存在しないが、あえてこの物語を命名するのならば「猫的酒気帯回想録」でいかがだろうか。

 

 一

 

晦日に張り替えたばかりの真新しい障子戸の上に、一枚の半紙が貼ってある。「春までに-5kg!」と書かれたそれは、おそらく我が家主のものであろう。春という字は潔く、5の数字には少し迷いが見える。最後の!が窮屈そうに詰めてあるのは、自身の奮起の可能性に懸け、彼女が後から取ってつけたものだからに相違ない。

 去る年はわが家主にとっても大変な歳月であった。身に余る変化が大挙して押し寄せた。吾輩と家主が窮屈な部屋の中で四六時中顔を突き合わせることになったのも、この数々の騒動のせいである。彼女の職業はかつて大学の学生であった。「かつて」というのは、既にその地位は剥奪されているからである。親族には大変な勉強家だと思われていた。当人も勉強家であるがごとく見せていたが、その実彼女は「タンイ」なるものを取りこぼし、「シケン」なるものをふいにした結果、いまはもう世の人に見せるための肩書を持っていない。

 わが家主が失ったものは世間体だけではなかった。恋仲にあった異性もまた去っていった。彼女は「男を立てる」ということが格別不得手な性格であった。人間の世界では競争心の強さは家主の性別にとって不適格なものであると見なされているらしい。彼女は強気なあまり当時所属していたバレーボールサークルの忘年会で、恋人の目があることも厭わず、オトコ共が異性の容姿や胸の大きさを品定めすることの愚かしさを訴えたという。その挙句「誰々ちゃんならワンチャンある」とはどういうことだ、私が飼っているのは猫チャンだぞと大ジョッキ片手に暴れまわったというのである。彼女の傍若無人ぶりに面目を失った家主の恋人は、その宴会の終わりに家主に別れを告げ、少し前から相談にのってくれていたというナナチャンとその夜のうちに新たに契りを交わしたと言うのだから仕方がない。

家主によると、人間の雄が異性に抱く隠し切れぬ性的な期待を目にしたとき、途端に首筋の後ろが寒くなってくるそうだ。わが家主は男どもの浅はかな姦計を看破する嗅覚だけは猫以上に鋭かった。そしてその安易すぎる謀略の判別さえつかぬ愚かな同性、あるいは自ら好んでそこに飛び込んでゆくような友人らには怒りを覚えつつも、ついにその拳を向ける先を知らぬまま「オトコは皆、不自然な栗毛をしたオンナのほうが好きなのよ」と吾輩の背毛をぐしぐしと撫で付けて言ったのを覚えている。吾輩も栗毛の猫は好かぬ。酒の方が何倍も可愛らしく思える。その点において我々の見解は寸分の狂いもなく一致している。

 

                 二

 

 憂鬱な気分で目を覚ますと家主は大いびきの最中であった。空腹であることに苛立つことはないが、我輩を空腹なままでいさせて構わぬという家主の態度が気に食わないので、障子桟によじ登りそこから腹をめがけて思い切り飛び込んでやる。ぎゃあといううめき声をあげ、家主は飛び起きると、我輩の首根っこをつかんで顔を覗き込んできた。

「あんだねぇ、それやめなさいって何回言えば分かるの」

「(メシ、クレ)」

「そんな顔したってごはんはでてきません」

「ナーン」

「だーめだったら」

家主はため息をついて我輩を解放すると、ふらふらとした足取りで台所へ向かっていった。我輩はその後姿を見送りつつ、彼女が毎朝拵える寝癖の芸術作品を眺めていた。まっすぐな毛束が、数え切れないほど外へ向かって伸びていて、まことにとげとげしい。

がさがさと冷蔵庫を開ける音がしたので我輩も台所へむかうと、家主はちょうどささみを切り出して皿へ盛っているところだった。

「(ワガハイ、ソレ、キライ)」

「ミキヨ、これ好きでしょ。え?嫌い?なら今日から好きになんなさい」

そう言って我輩の無言の抵抗を袖にすると、膝を折って台所の床に食事を置いた。

「ミキヨ、ミキヨ」

「(ナンジャ)」

「ただ飯ばかりじゃあんたもきまりが悪いでしょ」

「(そんなことはない。猫とは生来のただ飯喰らいなのだ)」

「だから芸を仕込むことにします」

「(んなアホな)」

家主はすこし考え込むと、まるで素晴らしいアイデアを思い付いたでも言うように目を見開いた。

こういう時、大抵彼女は良からぬことを思い描いている。

「そうね、先ずは手始めに………チ○チ○!」

 

教訓。猫に芸を仕込むことなかれ。家主の期待に応じるか否かは猫の気分次第なのである。褒められたいがために野生の矜持を捨てるのは犬の所業である。

教訓その2。餌をたてに芸を強要することなかれ。猫は生きるためには家主に従わざるを得ない。たとえ矜持を捨てることになろうとも、我々は睡眠欲と食欲に抗うことはできないのである。

 

我輩が家主の傍若無人ともいえる無茶ぶりに応えたかどうか、それは我輩自身の名誉のために、ここでは明かさぬこととする。「芸は身を助ける」というが、分不相応な芸は助けるどころか、滑稽を通り越して哀愁を帯びはじめる。それが本来、犬のものである場合は特に。

 

                  三

 

家主の狂人ぶりに関して、すでにその汚名の広がり具合で言えば、向こう三軒両隣程度では済まされないであろう。吾輩の住む場所から斜向かいにあるアパート「ヴィラ玉之江」に住むキジトラも、彼女の愚行の数々を目にしている猫のうちの一匹である。キジトラの名は、みゃあという安直なもので、歳は一年と半月ほどである。吾輩が家主の評判を確かめる調査の為に拙宅をでる時には、放し飼いであるみゃあとは大抵、顔を合わせることになる。

「ねーねーミキヨたん。この前ミキヨたんの御主人が、トラちゃんとわたちとチシャ猫マダムの集会に、一緒にいれてーって言ってきたの。ニンゲンなのに、わたちたちの集会に入りたいだなんて、へんなの」

みゃあ殿はそういうと、その短い舌で後ろ足の毛を整えた。

「相変わらずみゃあ殿は舌足らずな話し方であるな。我が家主が猫の集会に参加したがるのは今更の話ではないか」

「それはいいんだけどね、ミキヨたんの御主人、ちっちゃい板みたいなのをずーっと顔の前においてたの。そのひらべったいのにくっついてる黒くて丸いカラスの目みたいなのが、みゃあのことみてた」

「なるほど、なるほど」

「あと、しゃしゃしゃって、すごいおと、怖かったぁ」

「ふむふむ。それは我が家主がご無礼を。ただみゃあ殿、安心したまえ。それはカラスの目玉などではなく[すまふぉ]と言うのだ。人間たちはそれを触らずには生きていくことはできないのだよ。大方我々の集会に紛れ込んで[ふぉるだ]を潤わせようとしているのだ」

「そーなの、よくわかんない。でもミキヨたんのごちゅじん、すごい顔してたわよ。」

「それはそういう仕様なのだ。家主が気が触れたときには、吾輩たち猫の頭の後ろを丸呑みしようとしてくるから、みゃあ殿の御主人にもそんな兆候が見えたら気を付けるように」

「ミキヨたんも、たいへんねー」

「世話が焼けるというものだ」

 みゃあ殿は昼飯だというので帰っていった。

吾輩は引き続き聞き込みをすることにした。

 

つづく。

小心者なりの生き方。

 

 世の中には二種類の人間がいるらしい。

 

 強者と弱者。勝ち組と負け組。

 

 たった一度の人生で、自分がどちら側にまわることになるのかは、神様だけが知っている。

 

 競争社会なんて言われたって、何と戦っているのかも曖昧な毎日。

 

 だけど、焦りだけは感じているのだ。間違いなく。

 

 僕は正義を知っている。

 

 それなのに自分の正しさは、少しも結果を残させちゃくれない。

 

 他人は何にも分かってなどいない。

 

 それでも何でも知っているようにふるまうことを恥とも思っていない。

 

 そのうち自分もその「虚無感」の中にいることの楽さに気が付いて、あれだけ毛嫌いしていたはずの人間になっていく。

 

 夢をつかみたいと願ったその手に残されたのは

 

 「私は大人である」という免罪符だけ。

 

 生活は問題なく続いています。

 

 欲しいものはそれなりに手に入ります。

 

 だから僕のことは、きっと勝ち組でも負け組でもない一般人にしておいてくれないか。

                〇

 なんて本気で考えている人はどれくらいいるんだろうか。

 まぁ、ここまで何となくありそうなことを書いてみたのだけれど。

 そもそも人間とは葛藤する生き物なわけだから、強面の上司に詰問されて困り果て、面と向かって言えない愚痴を酒で紛らわせたり、人のことを平気で利用する同期の、下心丸出しの提案を断り切れない自分に辟易したりするのは当然だ。

 

 小心者の小市民。それでも愛すべき一人の人間。

 それが今日の日本人なのではないだろうか。

 

 なぜ突然こんなことを書きたくなったのかというと。

 

 理由は単純で

 

 「アパートの鍵貸します

 

 という海外の映画を観たからだ。

 

 まさしくコメディの王道というか、会話のズレをうまく利用した笑いは、いまのアンジャッシュ的なコントの源流である。

 

 筋書きとしては

 

 ビリー・ワイルダー監督・脚本による都会派コメディの代表作。出世の足掛かりにと、上役の情事のためにせっせと自分のアパートを貸している会社員バド(レモン)。だが、人事部長のシェルドレイク(マクマレイ)が連れ込んで来たエレベーターガールのフラン(マクレーン)は、バドの意中の人だった……。

allcinema ONLINE

 というシンプルなものだ。

 

 詳細はネタバレになってしまうので直接原典を当たってもらうとして。

 

 この映画が面白いのが、この映画の主人公バドは、浮かれ頓智気というか、目先のことばかりを追いかけるそれこそヒーローとは言い切れない器の狭さの人物で、それと同時に、底抜けに善良な人間であることが魅力でもある「いい奴」であることだ。

 

 というのも、それなりにいい奴が、それなりに報われる話を面白く描くことは、とても困難だと僕は思っている。

 

 『とにかく日常生活にはあり得ないような激しい思いと、その胸キュンが、ある種の夢だと思うんですね。視聴者は、激しい恋はそう簡単に手に入らないから、その夢を提供したいというつもりでドラマを描いたし、それがドラマの使命だと思うんです』

 

 という言葉は大石静先生のものです。

 

 ありふれた勝利に、カタルシスを得ることができるのはひとえに語り手の技術なのだ。

 

ともあれ、少しづつ生活の形が戻っている中で、ルーティーンに潰されてしまいそうになってしまっている人にこそ、見てほしい作品でございます。

 

 今僕が一番欲しいもの。

 それは「白黒つけようとしない眼差し」です。

 

 おしまい。

 

 

 

 

復讐

堕落は際限というものを知らない。

 

椅子に座って本を読んでいると、そうだ、くつろぎのためには温かいお茶が欠かせないなどと思い立ちT-falのスイッチを入れにいきたくなる。

 

お湯が立っていよいよお茶が入りましたよという段階となると、右手にはティーカップ、左手には文庫本をといった形でえっちらおっちら卓まで持って歩いたりする。

 

そしてティーカップを無事台所から運び終わったかと思えば、次は椅子に座って読書することさえも億劫になってくる。

 

そうして足の先にわずかに引っかかっていた靴下を放り捨てると、ソファに寝っ転がって読み差しの本に取り掛かる。

 

人がこうなってしまうと、いい迷惑なのは卓の上に放って置かれた淹れたばかりのお茶のほうだ。

 

あれ、そういえば飲み物はどうしたっけと本から視線をあげた時にはとっくに僕たちの関係性とお茶の温度は冷え切っていて、カップの持ち手だけがツンとそっぽを向いている。

 

あぁ、悪いことをしたねと電子レンジに優しく運びいれ、スイッチを押す。温めの始まったブーンという音に満足すると、僕は本に戻る。

 

翌朝、まるでミイラのように干からびたティーカップが、ラップに包んだ米を温めるために電子レンジの扉を開けた僕をひどく驚かせたのは言うまでもない。

 

おしまい。