歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

画伯

 

 ちっとも上達しない。画力の話である。

 昔から驚くほど絵が下手だった。犬を描けばば干し柿になり、ドラえもんを描けばほっかむりをしたコソ泥になる。伝わらない文章が悪ならば、伝わらない絵は罪であろう。その両方を科された僕は、一体前世ではどれくらいの大罪人であったのか。

 とにかく笑われることはあっても、笑えないくらいの画力なのだが、特に困るのが地図である。近くの駅までとかならいざ知らず、口頭で説明するのが難しいような道のりとなればお手上げだ。道を表す線がミミズの様に曲がっているのはいいとしても(よくない)、僕の地図が使い物にならないのには、画力そのものの問題と、もうひとつの致命的な理由があった。

 縮尺がめちゃくちゃなのである。

 試しに渋谷駅近辺の地図を描いてみる。ここがJR、ここがハチ公、あそこはセンター街に道玄坂のラブホ街だ!などとやっていると、地理に煩い人ならすぐにいても立ってもいられなくなるに違いない。JRの改札口からタワレコまでの道のりを基準に考えると、駅前の交差点は狭すぎるし、ハチ公広場は本物の倍の広さである。要するに、主観的な印象を中心に地図を作るので、再現性が低くなってしまうのだ。

 絵や地図を描いてみる時に大切なのは、空間認識能力はもちろんのこと、頭に浮かんでくるイメージに頼りすぎないということなのかもしれない。ものを描くには、観察と再現性が重要なのだ。つまり鑑賞する人と製作者の間には、それがどこまで現象的な現実に向かって描かれてたのかを示す、共通の物差しが必要なのである。下手な人の絵は対象そのものが持つ説明能力(特徴)を捉えきれておらず、その解釈が鑑賞する人の想像の中に溶け出してしまう。

 それでもこの画力のなさを無理矢理擁護しようとすれば、こう言えなくもない。一切の間主観的特徴やリアリティを見ている人に提供しない(できないだけなんだけど)僕の絵は、あるいは不条理絵画としてピカソやダリと並び、新たな美術流派を生み出す可能性を秘めているのだ…といっても、その正当な評価を目の当たりにする為には、末代まで転生を繰り返した先の未来まで待たなければならないのだろうけれど。

 

 おしまい。