歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

「猫的酒気帯回想録」

酩酊は人間だけに許された快楽に非ず。これは猫の嗜好においても好ましいことのひとつである。今宵は家主の目を盗んで「山ねこ」の瓶を開けた。今この六畳一間には吾輩以外の生き物はおらぬ。けれどもいつ人間が帰ってくるか知れぬ。ゆえに駆け足の語り口になるが許してほしい。吾輩は唯、人間の日々の苦労と、この狭い世間に生きる数寄者の野次馬精神に、何の腹の足しにもならぬ喋りにて報いようと努めるのみである。

 

森羅万象に筋書など存在しないが、あえてこの物語を命名するのならば「猫的酒気帯回想録」でいかがだろうか。

 

 一

 

晦日に張り替えたばかりの真新しい障子戸の上に、一枚の半紙が貼ってある。「春までに-5kg!」と書かれたそれは、おそらく我が家主のものであろう。春という字は潔く、5の数字には少し迷いが見える。最後の!が窮屈そうに詰めてあるのは、自身の奮起の可能性に懸け、彼女が後から取ってつけたものだからに相違ない。

 去る年はわが家主にとっても大変な歳月であった。身に余る変化が大挙して押し寄せた。吾輩と家主が窮屈な部屋の中で四六時中顔を突き合わせることになったのも、この数々の騒動のせいである。彼女の職業はかつて大学の学生であった。「かつて」というのは、既にその地位は剥奪されているからである。親族には大変な勉強家だと思われていた。当人も勉強家であるがごとく見せていたが、その実彼女は「タンイ」なるものを取りこぼし、「シケン」なるものをふいにした結果、いまはもう世の人に見せるための肩書を持っていない。

 わが家主が失ったものは世間体だけではなかった。恋仲にあった異性もまた去っていった。彼女は「男を立てる」ということが格別不得手な性格であった。人間の世界では競争心の強さは家主の性別にとって不適格なものであると見なされているらしい。彼女は強気なあまり当時所属していたバレーボールサークルの忘年会で、恋人の目があることも厭わず、オトコ共が異性の容姿や胸の大きさを品定めすることの愚かしさを訴えたという。その挙句「誰々ちゃんならワンチャンある」とはどういうことだ、私が飼っているのは猫チャンだぞと大ジョッキ片手に暴れまわったというのである。彼女の傍若無人ぶりに面目を失った家主の恋人は、その宴会の終わりに家主に別れを告げ、少し前から相談にのってくれていたというナナチャンとその夜のうちに新たに契りを交わしたと言うのだから仕方がない。

家主によると、人間の雄が異性に抱く隠し切れぬ性的な期待を目にしたとき、途端に首筋の後ろが寒くなってくるそうだ。わが家主は男どもの浅はかな姦計を看破する嗅覚だけは猫以上に鋭かった。そしてその安易すぎる謀略の判別さえつかぬ愚かな同性、あるいは自ら好んでそこに飛び込んでゆくような友人らには怒りを覚えつつも、ついにその拳を向ける先を知らぬまま「オトコは皆、不自然な栗毛をしたオンナのほうが好きなのよ」と吾輩の背毛をぐしぐしと撫で付けて言ったのを覚えている。吾輩も栗毛の猫は好かぬ。酒の方が何倍も可愛らしく思える。その点において我々の見解は寸分の狂いもなく一致している。

 

                 二

 

 憂鬱な気分で目を覚ますと家主は大いびきの最中であった。空腹であることに苛立つことはないが、我輩を空腹なままでいさせて構わぬという家主の態度が気に食わないので、障子桟によじ登りそこから腹をめがけて思い切り飛び込んでやる。ぎゃあといううめき声をあげ、家主は飛び起きると、我輩の首根っこをつかんで顔を覗き込んできた。

「あんだねぇ、それやめなさいって何回言えば分かるの」

「(メシ、クレ)」

「そんな顔したってごはんはでてきません」

「ナーン」

「だーめだったら」

家主はため息をついて我輩を解放すると、ふらふらとした足取りで台所へ向かっていった。我輩はその後姿を見送りつつ、彼女が毎朝拵える寝癖の芸術作品を眺めていた。まっすぐな毛束が、数え切れないほど外へ向かって伸びていて、まことにとげとげしい。

がさがさと冷蔵庫を開ける音がしたので我輩も台所へむかうと、家主はちょうどささみを切り出して皿へ盛っているところだった。

「(ワガハイ、ソレ、キライ)」

「ミキヨ、これ好きでしょ。え?嫌い?なら今日から好きになんなさい」

そう言って我輩の無言の抵抗を袖にすると、膝を折って台所の床に食事を置いた。

「ミキヨ、ミキヨ」

「(ナンジャ)」

「ただ飯ばかりじゃあんたもきまりが悪いでしょ」

「(そんなことはない。猫とは生来のただ飯喰らいなのだ)」

「だから芸を仕込むことにします」

「(んなアホな)」

家主はすこし考え込むと、まるで素晴らしいアイデアを思い付いたでも言うように目を見開いた。

こういう時、大抵彼女は良からぬことを思い描いている。

「そうね、先ずは手始めに………チ○チ○!」

 

教訓。猫に芸を仕込むことなかれ。家主の期待に応じるか否かは猫の気分次第なのである。褒められたいがために野生の矜持を捨てるのは犬の所業である。

教訓その2。餌をたてに芸を強要することなかれ。猫は生きるためには家主に従わざるを得ない。たとえ矜持を捨てることになろうとも、我々は睡眠欲と食欲に抗うことはできないのである。

 

我輩が家主の傍若無人ともいえる無茶ぶりに応えたかどうか、それは我輩自身の名誉のために、ここでは明かさぬこととする。「芸は身を助ける」というが、分不相応な芸は助けるどころか、滑稽を通り越して哀愁を帯びはじめる。それが本来、犬のものである場合は特に。

 

                  三

 

家主の狂人ぶりに関して、すでにその汚名の広がり具合で言えば、向こう三軒両隣程度では済まされないであろう。吾輩の住む場所から斜向かいにあるアパート「ヴィラ玉之江」に住むキジトラも、彼女の愚行の数々を目にしている猫のうちの一匹である。キジトラの名は、みゃあという安直なもので、歳は一年と半月ほどである。吾輩が家主の評判を確かめる調査の為に拙宅をでる時には、放し飼いであるみゃあとは大抵、顔を合わせることになる。

「ねーねーミキヨたん。この前ミキヨたんの御主人が、トラちゃんとわたちとチシャ猫マダムの集会に、一緒にいれてーって言ってきたの。ニンゲンなのに、わたちたちの集会に入りたいだなんて、へんなの」

みゃあ殿はそういうと、その短い舌で後ろ足の毛を整えた。

「相変わらずみゃあ殿は舌足らずな話し方であるな。我が家主が猫の集会に参加したがるのは今更の話ではないか」

「それはいいんだけどね、ミキヨたんの御主人、ちっちゃい板みたいなのをずーっと顔の前においてたの。そのひらべったいのにくっついてる黒くて丸いカラスの目みたいなのが、みゃあのことみてた」

「なるほど、なるほど」

「あと、しゃしゃしゃって、すごいおと、怖かったぁ」

「ふむふむ。それは我が家主がご無礼を。ただみゃあ殿、安心したまえ。それはカラスの目玉などではなく[すまふぉ]と言うのだ。人間たちはそれを触らずには生きていくことはできないのだよ。大方我々の集会に紛れ込んで[ふぉるだ]を潤わせようとしているのだ」

「そーなの、よくわかんない。でもミキヨたんのごちゅじん、すごい顔してたわよ。」

「それはそういう仕様なのだ。家主が気が触れたときには、吾輩たち猫の頭の後ろを丸呑みしようとしてくるから、みゃあ殿の御主人にもそんな兆候が見えたら気を付けるように」

「ミキヨたんも、たいへんねー」

「世話が焼けるというものだ」

 みゃあ殿は昼飯だというので帰っていった。

吾輩は引き続き聞き込みをすることにした。

 

つづく。