歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

「さよならのカレー」

 

 毛布にくるまれて眠ったはずなのに、目が覚めると身一つで布団の上に横たわっていた。眠気を振り払おうと顔を上げると、カーテン越しに鈍い光が差しこんで、ぱらぱらという雨が窓ガラスを打つ音が聞こえた。いつもの癖で布団をはぎ、冷えた明け方の中を体を震わせながら過ごしていたのだろうか、寒さで縮こまった腕を伸ばすと、ぽきぽきと関節が鳴った。ここ最近昼間に睡魔に襲われる原因はこの適当な寝方にあるのかもしれない。

 そして、今日も当たり前のように目を覚ましているけれど、こうして起きられたのは本当はとても運のよいことなのだ思った。
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 祖父の火葬に使うための棺を注文した時、葬儀屋は少し驚いた顔をした。
 「本当にこの最高級のものになさるんですか?」
 これは困ったといった様子で
 「たしかにカタログには載せてますけどもね、我々も実際に注文をいただいたのは初めてでございますから・・・在庫あったかなぁ。如何せん、棺というものは最後には燃やしちゃうでしょう?葬式をいうのはただでさえお金がかかりますからね。親族の方々はどうせなくなるんだからってこういうもののお代はあまり出さないというのが大半でして」と曖昧な返事を繰り返すばかりである。何しろ、棺一つに17万を払うというのだ。すでにこの世を去った人に一般家庭がここまでの金額を支払うというのは、彼らにとっては初めてのことだったらしい。
 そんな葬儀屋の態度をみて「いえ、こちらのものでお願いします」と葬儀の相談に同席していた、祖父の妻である時江さんは言った。
 「それが主人の指示でしたので」
 普段は柔和な雰囲気の彼女も、そのときだけはきっぱりとした物言いで葬儀屋に食い下がる。
 「はぁ、一応確認はしてみますが・・・」葬儀屋はそう言うと、頭を掻きながら事務所の奥へと消えていった。
 「こうでもしないと、また昌克さんにしかられちゃう」と時江さんは言った。
 その時、僕も彼女と同じ気持ちでいた。ここで妥協したら、祖父はあの大きな声で「どうしてきちんとやらないんだ」と文句を言うに違いないと。なにしろ祖父は生前から、死に装束も高級なスーツでないと嫌だと言うような豪奢な人間だった。細かいところにまで気を配り、完璧を目指す性格は死ぬ直前になっても変わらなかったのである。
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 祖父は気難しい性格である一方で、戦後の貧しい時代を知っているからか、育ち盛りが四六時中腹を空かせていることの不幸を知っている人間でもあった。
  青春時代は相当に貧しい暮らしだったらしい。しばしばあの時代は余裕などというものは国中どこを探したって見当たらず、道路の脇に生えていた野草を食べて飢えを凌いだと語っていたのを思い出す。
 そのせいか、中学生だった僕が家に遊びに行ったときなどは、6人掛けの大きなダイニングテーブルに乗り切らないほどの大皿料理を幾つも用意して待ってくれていた。豪華な食卓で孫たちをもてなすのは、きっと自分自身の楽しみでもあったに違いない。
 料理といえば、時折食べさせてくれた得意料理のカレーには独特な隠し味があった。とてもおいしかったので後にそのカレーのレシピを知る僕の母親に聞いてみたところ、とてもカレーの材料とは思えない代物をたくさん使っていたので驚いた。複雑であるようでどこか気まぐれなそのレシピは、他の人間には再現不可能であるらしい。今やナスとケチャップとヨーグルトがどうしてカレーの具材として出会ったのか、それはもう誰にもわからなくなってしまったのが残念である。「ただ食べたいものを手当たり次第入れていったんじゃないの」と母親は言っていたが、それが結果的に成功してしまうあたりが、作り手の性格を表しているようで可笑しかった。
 プロの声楽家であり、音楽大学の教授としても厳しく生徒たちを指導していたように、孫である僕にも厳格に接していた。それでも、その言葉や振る舞いの中には確かな愛情があった。感情的な人間であるが故に、思いは怒りや叱責という形をとることが多く、決してありふれた親族同士のつながりのなかに見られるようなわかりやすいものではなかったと思う。けれど、その愛は、自分の子供や孫たちがひもじくないようにと、いつだって食べきれないくらいの量が盛り付けられていた食卓の中にこそあったし、もっと別のものが食べたいとわがままを言った僕の為に自ら台所に立って作ってくれたあの美味しいけれど風変わりなカレーの中にも、祖父の愛はケチャップやヨーグルトと一緒になって隠されていたのである。
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 早朝からの雨は午前中のうちに止み、葬式場である教会には礼服をきた元生徒や旧知の人々が参列していた。
 礼拝堂の中央には純白で複雑な模様の入った棺があり、その中に黙って目を閉じたままの祖父がいた。70歳の時に撮ったという遺影は僕の目には若々しく映り、それは他の人にも同じであったようで、お別れに来た人々は皆、いつハッと目を覚まして、またオペラを歌いだしても驚かないといった様子だった。中には静かに涙を流して弔う人もいて、そういう時僕はそれを黙って眺め、「滞りなく用意してもらえて良かったね」と心の中で呟いてみたりした。
 いくつかの賛美歌を捧げ、弔辞や献花が終わると、葬儀屋は手慣れた様子で花を切り出し、棺はすぐに数え切れないほどのバラの花で覆い尽くされた。
 「これも本人の希望なのよ」と時江さんは言った。
 「お父さんらしくていいじゃないの」と母が言った。
 出棺の折り、式に訪れた人々が、誰からともなく歌を口ずさみ始めた。それは賛美歌の405番「また会う日まで」だった。たとえこれが今生の別れだとしても、永遠の別れというわけではない。その暖かい歌声に包まれ、祖父は静かに教会を後にした。
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 礼拝堂を出て外の湿った空気を吸い込むと、おなかのあたりがグゥ、と鈍臭く鳴った。
 悲しいことがあったとしても、生きている限り腹は減る。
 そうだ今日は、カレーにしよう。
 帰りにスーパーに寄って、そしてケチャップとヨーグルトを買ってみるのだ。そして自分だけのレシピを作っていこう。はじめは不味いと言われても、最後には愛する人たちをお腹いっぱいにできるくらいのカレーを作っていこう。多少の失敗は気にせずに。それくらいの時間は、きっと僕には残されているのだから。
              

おしまい。