歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

僕は大体、間違えている。

 

 先日、大学時代の先輩と駒込にある閑静なバーで三か月ぶりに再会した。僕たちの会話は、最初のうちは若干のぎこちなさを含んだ近況報告が中心であったけれど、次第にバーが売りにしていた多種多様なリキュール達の手伝いもあって話は盛り上がりをみせ、話題は『この世に作家が存在している理由は何か』というやや抽象的なものになっていった。

 

 話の発端は僕の方から持ちかけた愚痴のようなものだった。

 僕は先輩に、仕事先の師匠から受けていたとある忠告について相談したのである。

 その忠告とは、

 『お前が書くものは正しくはあるがあまりに小さな真実に拘り過ぎている。お前ごときの主張なんか言われなくたってみんな知ってるぞ』

 と、いうものであった。

 誠に遺憾ながら、僕はその忠告の言う通りだと思った。

 僕が自分自身で描きたいと思っている『人間の普遍性』というテーマについて、客観的に自分が書いたものをもう一度眺めてみると、やはり僕が言うところの普遍が通用する場面というのは、極めて範囲が狭いのである。

 つまり、常識の範疇を超えられていないのだ。

 これは破るべき殻であると同時に、自らの限界点なのではないかとも思うほどに、長い間悩ましい問題で居続けていた。今回の忠告は、それを師匠に看破される形となって現れたのである。

 いったいどうしたらその問題は解決を見るのか。はたまた才能不足を理由に、早期撤退をはかるべきなのだろうか。

 こんな話を先輩にしてみると、頭の良い彼はこの現状を一言で表してみせた。

 『つまり受け手とテーマの間に、作家が介在する意味が薄いってことだね』

 なるほど言い得て妙だった。と、同時に、ひとつの疑問が湧き出てきた。

 『誰もがSNSや動画配信等で自己表現をすることができるようになった今、プロの作家が存在している意義とは一体なんだろう。できているひとと、できていないひとの差は、なんなのだろう』

 ということである。ただしこの疑問は、先輩の先の言葉によって、湧いてくると同時に解決されたも同然だった。

 ようは、僕が今やってしまっているように、ただ真実を語るだけでは、人は誰も驚きはしない、というただそれだけのことだった。

 地球が丸く、日本の裏側にはブラジルがあるという事実を聞いて、誰が驚くというのだろう。文章作家の実力とは詰まるところ、オチが「日本の裏にはブラジルがあった」という筋書きの話を、どれだけ他人の興味を引き付け、結末を納得させられるか、という技術のことなのだ。(残念ながら実力に乏しい僕はこの例をシナリオとして上手く作れない。現代落語にでもしたらちょっとは使えそうというくらいしか思い浮かばない。誰か、創作、お待ちしております。)

 そして僕は先輩との対話を経た結果、先の疑問に対する自分なりの答えとして、作家として成立するための次の3つの条件にたどり着いた。

 

① 人類共通不変の命題を発掘するのに必要な洞察力、観察力に優れていること

②その命題を表現の中で提示し、それに対する作者の導き出した結論や主張を、受けて自身が発見したと思わせ、納得させるための優れた語り口(あるいは技術)を持っていること。

③食えていること

 

である。

他にも様々な条件があることは承知しているが、先輩との会話の中で気がついたことといえばこんなところだった。

 

 改めて自分のことをこの条件に照らして考えてみると、やはりどれも十分に達成しているとは言い難い。ははぁ、たしかにこれでは『普遍性』とやらを建前に、技術不足、才能不足を隠して捲し立てるように語るのも当然のように思えてくる。小さな真実にこだわるとは、見識が狭く余裕が無いことのあらわれだったのだ。自分のことながら、まったく、無様極まりない。

 恐らく、「作家」とは、あの条件が満たされた場合に発生する『現象』のようなものなのかもしれない。

 そうすれば、物書きなどというものがプロやアマチュアといった枠組みに関係なく現れては、優れた才能がありながら消えていく理由にも説明がつくような気がする。書き手がいる意義が先にあるのではなく、作家という現象が起こる条件が存在しているだけなのだから。

 

 と、先輩とここまで話をしたところで、終電も近い時刻となり、会はおひらきとなった。最後にアップルとバニラのリキュールを飲み干すと僕らは別れ、ひとり山手線に乗り込んだ。

 

 先輩はこれから仕事が忙しくなるらしい。

 僕は未だ自分のやるべきことをやっていくだけの資格を持ってはいないような気がした。

 自分自身に満足して仕事に取り組める日など恐らく一生訪れないだろう。

 ただし、同時にこうも思うのだ。

 自分が間違えたことをしてしまうことよりも、自分が間違えていることに気がつかないことの方が恐ろしい、と。

 とにかく、作り続けるしか道はない。

 

 失敗して、痛い目を見なければ学ばない不器用さを憎みつつ、僕は今日も、不満顔で生きています。

 

おしまい。