歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

甘えたい。叱られたい。勇気づけられたい。

 

僕には、人生において、ずっとこの場にとどまってぬくぬくしていたい、という欲求がある。

 

しかしそれと同時に、心のどこかでは、焦りを感じている。

 

何もしたくないのに、何もしていない自分に苛立っている。

 

思い返すと僕は、自分の人生において、自分の価値観で何かを選ぶということをしてこなかった。

 

基準は全て、他人の目からどう見えるかということだけだったのだ。

 

自分の存在を認められない家庭環境で育ってきたということもあり、社会や親族の考え方に縛られて、高邁なもののみを信仰し、世俗的なものすべてが下らないと思っていた。

 

(今考えてみればそんなものは主観的なものでしかなく、その考え方こそが下らないものなのに。)

 

立派な自分、従順な自分のみが認められる限定的な愛情の下で育ってきた僕は、自分の意志や感情を持つことに対して、いまだに抵抗感がある。

 

己の価値観や判断を、信じることができない。だから、基準が世間体や他人の視線になる。

 

わたしはこうだ、と強く言えることだけが、いいことだとは思わないが、誰かに「良し」と認められなければ自分自身で受け入れることができない価値観など、はたして本当の自分のものだと言いきれるのだろうか?

 

人間には、「ヨナコンプレックス」と呼ばれる、環境変化に対する恐怖心のような、「現状維持」への依存心があるらしい。

 

それは、何もできない自分から、できてしまう自分へ変わっていくことへの恐怖心とも言える。

 

20余年もの間、過保護を超えた過干渉を受けながら、人形のように生きてきた一方で、何不自由ない暮らしを与えられてきた。そんなんだったから、自分の人生を自分で生きようと思う、そんな僅かな精神的な変化や生活の変化さえ、怖いと思ってしまう自分がいるのだ。

 

焦る気持ちとは裏腹に、傷つくのを恐れるあまり、踏み出すことができないで現状に甘えている。これが、僕の本当の姿である。

 

些細な毎日を愛せる人間に、欲求を満たす為に必要な努力ができる人間に、つまり普通の人間に、僕はなりたい。

 

そうすれば、この苛立ちは、消えて無くなってくれるに違いない。

 

自分が自分であるために、誰か、甘えさせてください。

そして逃げようとしたときには、きちんと叱ってください。

自分で一歩を踏み出す方向を決めたら、一言、それでいいと勇気づけてください。

 

ただそれだけで、僕は生きられるのです。

 

誰かのせいにしたいんじゃない。

ただ悲しいことがあったということを、わかってほしかったのです。

 

おしまい。