SNS時代の公平性について。
拙い例えで恐縮なのですが。
例えば、ここにシーソーがあるとします。
あなたと、誰でもいいですが、もう一人とシーソーで遊ぶとします。
二人で一緒に楽しもうと思った時、あなたならどうしますか?
勿論、二人で乗りながら、お互いが順番に飛んだり落ちたり、また跳ねたりするでしょう。
つまり、シーソーを楽しむための公平性とは、乗っている人がお互いにギッタンバッコンし合うことによって保たれているわけです。
落ちたり上がったり、そういうものを二人で共有するのが、シーソーが楽しい理由ですよね。
そんなこと、ほとんどの人が知っていると思います。
けれども中には、どちらかの人が浮いてる場面だけを切り取って
やれ『どうして片方だけ浮いてるんだ』
とか
やれ『片方だけ地面についたままなのはどうしてだ』
とか
そう言った的外れな批判をする人がいます。
これじゃあどちらかがつまらないじゃあないか、とでも言いたげな。
いやいや、これからそれが入れ替わったりするんでしょ、と思うのだけれど、そうった批判をする人が見ているのは、片側が浮いて止まったままの一枚の絵だけなのです。
意見を言う前には、その課題や問題の本質を理解する必要があります。
平等に楽しむことを謳った挙句、シーソーを水平に保つことになったら、あなたは楽しいですか?
そんなの、シーソーで遊ぶ意味がないですよね。
最近は、SNSとか、ただ一つの考え方に偏った人の集団の中で、そんな『公平性』を取り違えた批判が、散見されているような気がします。
物事には物事に合った公平性というものが存在します。
シーソーの原理を理解していれば、片方だけ浮いてることが、間違っていないことだとわかるはずです。
わかりやすい正義に便乗するのは簡単です。
わかりやすい感情に同調するのは簡単です。
けれどもその正義や感情が『切り取られた一場面』のものでしかない場合も存在します。
もしくは、文脈を分断したまま、基準が己だけの価値観によって、知らぬ間に切り取ってしまっている場合もあります。
目の前にある『なんだかけしからんもの』の、その前と後には一体何が存在しているのか、少しだけでもいいから想像してみれば、こうした誤解は減らせると思うのです。
自分で考える力こそ、その先の時代を生き抜くために必要なものなのではないでしょうか?
菊池寛の言葉に、次のようなものがあります。
『人を批判したり判断する時には欠点を先に言いなさい。あの人は人がいいがだらしがない、というとだらしがない人ということになってしまう。しかし、だらしがないがいい人だと考えれば世の中は楽しくなります。』
自分の正しさを消費する前に、順序と想像を駆使して、世の中をちょっと楽しくする方向に進んでいきたいと思った、今日この頃でした。
おしまい。