十人十色の子供たち。
昔、僕の家の前に広がる空き地が開発され、今のような建売の住宅街になってしまうより、ずっと前のこと。
小学校の終業チャイムが鳴り夕方になると、その段々畑のように広がる草地は、周辺に住む子供たちの遊び場になっていた。
男の子達は各々のお宝である野球道具を持ち出し野球に夢中になり、一方の女の子達も、テニスラケットを男子顔負けのスイング(というか、実際にそこでは女の子達の方がスポーツがずっと上手だった…)で黄色いボールを打ったり打ち返したりしていた。
一帯には子供達の声が響き渡り、1年生も6年生も一緒になって遊んでいて、かなりの騒音となっていたに違いない。
けれど、不思議なことにそれを咎めるような大人は誰もいなかった。時折庭に飛びこんでくる軟式C号に対して、そのうち窓を割ってしまわないように気をつけなさいよと諭してくれる人達がいたくらいで、公園ですら球技が禁止されている今となっては、本当に恵まれた環境で少年期を過ごしていたなと思う。
一方で、そんな自由奔放な風そのものである子供達を快く思わない大人もいた。
誰かと言うとそう、その空き地一帯を管理している不動産会社の人々である。
スーツのまま、猫じゃらしや青々としたススキの葉を掻き分け警告にやってくる彼らはみな不機嫌なナマズのような顔をしていて、まるでその時しか大声を出すことを許されていないかのように、オォイ!そこで遊ぶナァ!とおおよそ子供に向かってはいささか攻撃的な怒鳴り声をあげているのだった。
一方の僕らはといえば、怒声をきくと一目散に逃げ出して、ガキどもを捕まえられずボウズのまま事務所へ帰っていく不動産屋の姿が見えなくなると再び集まって、『次はァ、4番ン、ファーストォ、佐伯ィ』などとやりだすのが日常の風景となっていたのである。
そんな風にして遊んでいたある日のこと、子供達の理想郷のようであった空き地を、一度にして『桃源郷』にしてしまった出来事が起こった。桃源郷と言ってもそれは、思春期間近の男の子達にとっての話ではあるが…。そしてその桃源郷で、僕は掛け替えのない『一冊』を見つけることになる。
当時よく一緒に遊んでいた、学年が1つ上の友達のあっしー(小学生の頃の僕ことを少し知ってくれている人なら、もしかするとご存知かもしれない。あ●中バスケ部元主将で世紀の悪戯好きであった例の彼のことである)は、午後の授業を終え小学校から帰宅途中の僕を捕まえると
『いいもん見つけたぜ』
とそのまま電信柱のある空き地の中でも高地の広場へと連れて行った。
どうせガラクタを拾って秘密基地にでもしたのだろうなと思いながらついていくと、そこにはいつもの野原があるだけで、面白いものは特になかった。
『あっしー、何がいいの、高いところに一人で登るのが怖かっただけ?』
僕が悪態をつくと、ふふんと年長の彼は笑い、今度は『ゆうき!』と野球仲間のうちでも年少の、当時小学二年生だった友達の名前を呼びつけた。
すると今度はゆうき君が、電信柱の陰から何やら大量の荷物を抱えてやってきたのである。
その姿が、ピノキオに出てくる狼のファウルフェローに従う、ギデオンみたいだなと思ったのだが、そんな空想は直ぐにゆうき君の抱えている物の風圧というか爆風で粉々になり、遥か彼方へと飛んでいった。
なんとゆうき君は、それを大量のエロ本だと知ってから知らずか、ニコニコと笑いながら大切そうに抱きしめていたのである。(ゆうき君の名誉の為に言っておくと、現在の彼は現役で東京工業大学に合格し前途有望な青年として勉学に励んでおられます)
簡単に言うと、それはもう、宝の山だった。簡単に面白いとは言わないハイセンスなあっしーがそう言ってしまうのも頷ける。1、2冊どころではない、文字通り山積みのエロ本はそれだけで、ミレーの絵画にさえ劣ることのない輝きを放つということをその時僕は学んだ。
というわけで、その桃源郷の宝物をどう山分けするかという話になったのだけれど、僕とあっしーの、5、6年生による上級生会議の後、十分に内容を吟味した上で、これは!と思うものをドラフト形式で選んでいくということになった。
一人一人の第一回選択希望エロ本はこの時、あっしーはナース系、僕はお姉さん系、後から途中参加していた弟は百合と、小学生にして各々確固たる性癖が芽生えており、なんと1位が重複するということが無かったのが、興味深いところである。今やったらどうなるんだろう。
多くのエロ本の山の中には健全な漫画もいくつか混入していた。ドラフトの最後の方になると、じゃんけんで負けた人がそれら『ハズレ』を持ち帰ることになり、今も昔もじゃんけんがめちゃくちゃ弱い僕はその処分を任されることとなった。
せっかくテンションが上がっていたのに余計なものを…と思っていると、今度は例の不動産屋の管理人が悪魔の儀式に夢中になっていた僕達を発見したらしく、そこから降りてこい!などという罵声が聞こえてきた。
過剰に巨乳に描かれた、豊満淫靡なイラストにすっかり鼻の下を伸ばしていた僕達は虚をつかれてしまい、焦りながらもこの秘宝たちをどうすれば良いのか考え抜いた挙句、それぞれの虎の子、ドラフト1位指名エロ本だけをズボンとパンツの間に突っ込んで、そそくさと退散することにした。
その時、僕は本来真っ先に手放すべきであるはずのハズレクジの本を、どうしてか捨てることが出来なかった。今になって見れば分かるのだが、不当な扱いを受けているものを見捨てることのできないというこれは、どうやら生来的な自分の性格であるらしい。ハズレの烙印を押されて、やっと手にとって貰えたと思ったら、捨てられる。そんな文庫サイズの本のことを考えると、僕は可哀想に思えてきてしまったのである。捨ててしまう前に、最後まで読んでやろう。ハズレの烙印を押すのはその後でもいいじゃないか、と。
そんなこんなで、えっちらおっちら2冊の漫画を抱えて家に帰ってきた。
残念なことにその日の夜からは雨が降り始め、僕達が見つけたそれらは、宝の山から紙くずの山へと変わってしまった。
引き取られ、生き残った2冊。
エッチなほうは割愛するとして、ハズレだ思っていた単行本はあの
チャールズ・M・シュルツによる作品『PEANUTS』であった。
そしてこれこそが、僕とスヌーピーとチャーリーブラウン、その仲間たちとの初めての出会いだったのである。
思い返すと、谷川俊太郎訳のそれは、小学生の僕にだって、原作のケレン味を十分に味合わせてくれたと思う。
その中でもペパーミントパティーの溌剌さと学校の先生への斜めを向いた発言はその後の僕にとてつもなく大きな影響を与え、中学生の時理科と数学の成績で驚くべき低空飛行を続けることになってしまったのは、間違いなく彼女のせいだ。
不思議と出会った一冊。僕はこの作品の中に、空き地で無邪気に遊ぶ自分たち自身の姿を、見つけることが出来た。
野球に興じ、時には悩みながら、子供たちはありのままの自分を生きる。不条理さえ、見ようによってはいつだって笑いをもたらしてくれるものであるというPEANUTSの哲学は、大人になった今でも、現状に対して考えすぎてしまいがちな僕を、そっと救い出してくれるのである。
さて、どうして今頃になってこの話を思い出したのかというと、先日、仕事の打ち合わせがうまくいかず、ふてくされながら本屋に立ち寄った時に、とっても良いものを見つけた為である。
PEANUTS全集。
これまで日本語未訳だった数百に及ぶストーリーも谷川俊太郎さんが翻訳を担当し、これぞまさしく完全版である。
今月の末に発売が開始されたばかりで、毎月2冊のペースで発刊、全25巻の予定であると言う。
もし小学生だったあの時、ハズレだと言って単行本を捨てていたら。
もし先日、仕事の全てが上手くいって、るんるん気分で帰宅していたら。
僕は世界一有名なビーグル犬のことをにわかに知っているだけで、この素晴らしい作品に出会うことはなかっただろう。
作中では、シュローダーのおもちゃのピアノに寄っ掛かりながら、ルーシーがこんなことを言っている。
Life is full of surprises.
(生きてると、驚くことばかりね!)
この全集、一冊2800円と安くはないが、一生ものの宝物になるのは、きっと本そのものだけではないはずだ。
番茶の美味しい秋の夜長、今よりちょっとだけ無力で、今よりずっと純粋だったあの頃を思い出しながら、ページをめくってみてははいかがでしょう?
おしまい。