歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

冬に目覚める。

 

 たった一息で、視界は真っ白く覆われた。

 12月、早朝の気温は5度。僕の住む横浜の地にも霜が降り、着の身着のままのパジャマ姿にマスクという出で立ちで朝刊を取りに外へ出ると、吐いた息で眼鏡が曇る。まだ暗いうちから郵便受けに投げ込まれていたであろう新聞紙は、手に持つと冷たさでパリパリと音を立てそうなほどである。手足の先をこすりながらダイニングの席につき新聞を広げてみると、その日の見出しは我が国の首相について批判めいたものが書いてあった。 

 なにやら公的資金を私的に流用したとかで、それも花見の会の開催のためだそうである。記事を見ると未だ花の咲かないうちから中止だのなんだの、実際に金を使い込まれた我々一般人はそっちのけで、永田町談義に花が咲いていた。

  記事を斜めに読んだ後、隣でお茶漬けを啜っていた大学生の弟にそれを手渡した。彼は大雑把に畳まれた新聞紙を見ると、ぽいとテーブルの上に投げ捨て『時間がないから電車の中で電子版読むわ』と言い、茶色の厚手のコートを着て足早に家から出て行ってしまった。

 家族が朝の一分一秒を惜しみ、忙しそうに身仕度をしている中で、手持ち無沙汰な人間はどうしても罪の意識を感じざるを得ない。居職の軽薄さ、それも20代半ばになっても実家に間借りさせてもらっている身の上である。こういう時、目覚めだけはすこぶる良い自分のタチを恨めしく思う。

目覚めが良いと言えば、先の首相の話にも出た桜の木も、冬の寒さによって秋の落葉から眠っていた花芽が目覚め、開花への準備を始める性質を持つのだという。これを休眠打破と呼び、春に気温が上昇すると一気に成長して花が咲いていく。桜の芽は、冬の寒さが厳しければ厳しいほど、その年の春に見事な花を咲かせると言われていて、春夏秋冬のサイクルの中でこそ開花する桜はまさしく日本を代表する樹木なのだそうだ。

 

 思い返すと僕が大学を辞めた時、それは丁度3月下旬のことであった。

 きっかけは2年半付き合った恋人に振られたことである。正確にいえばそれが本当の理由というわけではないけれど、その時の僕は、精神的にも環境的にも大幅に停滞していると言わざるを得ない状況に陥っていた。だから大した覚悟もなく、向こうの方からやってきた変化に身を任せたのである。ただそれだけの理由で大学を辞めるというので、周囲の人々は反対をしたり話を聞くふりをして蔑んだりしてきた。けれどその誰もが本気で思ったことを言ったりはしなかった。そもそも興味がないというのが彼らの主流な意見であった。

 退学届と学生証を教務課に提出し、3年も通ったにも関わらずそんなに馴染みのないキャンパスを背にして国道沿いを歩いていると、その脇をぶかぶかの制服姿の高校生4.5人が走り去っていった。 新学期はまだだったが、皆が違う制服を着ていたので、それぞれの進学先の格好をして中学校時代の同級生たちと会っていたのかもしれなかった。彼らの姿は、変わっていく自分たちをお互いの格好を通して確認しあっているようにも見え、今の友情を確かめながらもこの先の未来に期待せずにはいられないといった感じである。僕はそこに、見切りをつけるのとはまた違う新しい人間関係というものが始まる前兆を見たような気がした。人は、あやふやだがなんだか楽しそうな未来を手にする予感があるとき、他人との繋がりの優先順位を簡単に変えてしまうのだろうか、でもそれは別に良いとか悪いとかでは決められないことなんだろうななどと考えていると、携帯に連絡が入った。

『退学おめでとう』

それは、もう15年以上の付き合いになる友人からのメッセージだった。

正解か不正解か判断される前に僕の選択を祝われるのは初めてのことである。その言葉と現実のギャップが可笑しくて、気がつけばひとり笑っていた。残るものは残り、去っていくものは去っていくだけなのかもしれないと僕は思った。

 金も覚悟もなく大学を辞めたあと、僕の行動は夏を過ぎ寒くなってゆくほどにその量を増やしていったように思う。知人の紹介でインターネットラジオの原稿を書くようになり、またその繋がりで身内用の舞台のホンを書く。勿論それだけでは食ってはいけないので、学生の間続けていた夜の時間でできるバイトを再開した。必要に迫られてとった行動ではなにか感慨めいたものは得られはしないし、未だ独立した形として完成していない自分にとってその才能のありかも、ものになる蕾の有無さえもわからない現状が続いている。面白いが楽しくはない毎日の先になにがあるのかなど知れたものではないというのが、ここまでの正直な感想である。

 

 それでも褒められる点、ただ一つ言えることがあるとすれば、僕はただ春になるのを待つだけというのはやめたということだろう。

 

寒ければ寒いほど、桜の開花は美しい。その厳しさを乗り越えたことなどそ知らぬ顔で、誰かを楽しませるその花のようにただ書き続けたいという想い。その為に、僕は今日もまた冬に目覚める。

 

おしまい。