悲しい時には葡萄を食べよう。
かつて大昔の中国で、高価な薬を買う事ができない貧しい人達の間で流行した、怪しい民間療法が存在したという。
なんでも、治したい症状に効く薬の名前を紙に書き、その紙を燃やして、残った灰を飲んだり患部に貼ったしていた、と言うのである。
医学が発達した現代にこの話を聞くと、プラシーボ効果もびっくりなとんでもアイデアのように思える。
しかし、それだけ大昔の中国人が、本気で治りたいと思っていて、また言葉の力を頼りにしていたということも、わかってくる。
彼らほど真剣でないにしても、いくらか言霊のようなものに頼りたくなるのは、今の時代に生きる僕たちにだって当てはまるはずだ。
たとえば僕は、何かつらい事があった時には、葡萄を食べることにしている。
理由は単純で、葡萄の花言葉が
『忘却』
だからである。
まぁ別に言葉だけでなくとも、特に粒の多いデラウェアは、何かを忘れるのにはもってこいの果物である。皮なんだか実なんだかわからない膨らみを次々と口に含みながら、注意深く味わっていると、大抵のことは忘れる事ができる。
決して怒らず、物事に柔軟に対処する力をもっている人のことを、懐が広いなんて言い方をしたりするけれど、僕の場合は、胃袋を広げることで解決できたりする。
つまり、ただのいやしんぼである。
溜飲を下げるのには、言葉を飲み込むよりも、葡萄の粒を飲み込むのが最適なのだ。
そんな万能な葡萄ではあるけれども、ただ一つ、弱点がある。
それは、葡萄そのものに、思い出が宿ってしまうことである。
忘れる為の葡萄をみて、忘れたい記憶を思い出すのは大いなる矛盾ではないか?
例えばそれが別れた恋人との思い出であったりしたならば、文字通り甘酸っぱい味がしてくるに違いない。
そんな理由があって、僕は、大切な人と葡萄との距離が近くならないように気をつけている。
好きな人の前でWelch'sなんて飲んでしまったあかつきには、きっと三日三晩後悔するに違いない。
冗談はさておき、嫌なことがあった時には、なにか他の事に没頭するのが一番いい。
僕の場合、それが言葉であり、葡萄であった、というだけの話である。
オードリーの若林が、著書のなかで『ネガティブの反対はポジティブではない。没頭である』なんてことも、言ってたよ。
と、言うわけで。
もし、あなたに大切な人がいて、その人がぶどう狩りに誘ってきたら、きっとその人は、あなたのことをとっても大事にしてくれる人でしょう。
何故なら、忘却のひみつ道具が役に立たなくなって、悲しい思い出を抱える事になったとしても、あなたとならば構わないと、そういう強い決意を持って、あなたをぶどう狩りに誘っているからなのです。
………いや、それは言い過ぎか?
それから。
葡萄の花言葉には『おもいやり』という意味も、あるからね。
おしまい。