人は、人の傘になれるという話。
梅雨入りしたというのに、ずぼらな僕は傘を持って出かけない。なんとかなるだろうとたかをくくり、帰宅すれば濡れ鼠となって玄関のドアを開けるその姿は、家族に言わせれば、もはやこの時期の風物詩だそうである。
自分だけは雨に降られまいなどと言えば、それは根拠の無い自信それまでだが、晴れを信じているんだと言えば、何故か前向きに聞こえてくるから不思議である。物は言いようというか能天気というか、脳内だけは常に晴れ渡っている僕のような人間は、底抜けの阿呆なのであろう。
そういえば、人は人の傘になれると謳った広告コピーがあった。
もし僕が傘になったとしたら、風に煽られるとすぐにひっくり返る軟弱なビニール傘になるに違いない。
よく忘れられるとか盗まれるとか、扱われ方がどこか適当なところにも、なんだかシンパシーを感じる。いいもんね、ビニール傘はお手軽さが売りなのだ。
降ってくる槍やら世間の荒波やらなんでもかんでも防ごうってんなら、屈強な男を捕まえることですよ、そこの女史諸君。コンビニで買える男、ポイ捨てできる都合のいい男、それが僕なのだ。
まったく、我ながら情けのない話である。
傘と聞いて、メリーポピンズを連想する人もいるかもしれない。歌を歌いながら、自由に空が飛べる魔法の傘。僕はあの傘が大好きだ。
雨の日の道具で、晴れた空を飛ぶという発想が、なんとも楽しい。たしかに、傘の方だって、雨に打たれるためだけにこの世に生まれてくるのは、なかなか嫌だろうなあと思う。
まぁ、なかには、誰かが濡れない為の空間を作り出しているその事が嬉しいのだという、責任感に溢れた傘もいるかもしれないが。
おそらくコウモリ傘あたりだろう。
急な雨を駅でやり過ごしていると、時折相合傘をするカップルを見かける。
女の子の方が持っていたのであろう小さな折りたたみ傘を男の子が持ち、肩を寄せ合いながら歩くその様子を見ているとなんとも微笑ましい気持ちになってくる、というのは嘘である。
こんちきしょーめ、男なら水の一つや二つしたたらせてみろってんだ。なんかもう雨の避け方が中途半端すぎてなんだったら彼女の鞄、水滴だらけだからね?
とは流石に言えず。
こういう時は、こんな日だってたまにはあるさと開き直って、降りしきる雨の中一歩踏み出し、水たまりをばちゃばちゃと遊ばせるのが正解なのに違いない。
ニューバランスに冷たい水が沁みてくるのを感じながら、僕はスキップをして家路につく。
口笛よろしくSinging in the rain を歌って帰るのは、決してヤケをおこしたわけではないのだ。
雨の中、どうしてか熱い一滴が顔を伝っていくのを無視して、僕は帰る。帰るんだ。
こうして、6月の我が家の風物詩が誕生するのである。あんたバカァ?と母親に白タオルを投げ渡される僕。
そうして、見るも無惨な素っ裸の濡れ鼠は、実家の暖かいシャワーを浴びながら、ひとりでショーシャンクのアンディのモノマネをしているのでありました。
おしまい。