歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

チャンスは他人のナルシシズムの中にこそある。

 

 以前、とあるネットラジオの有名ハガキ職人

 

 「あなたが投稿している、思わず読んでしまうようなあるあるネタはどうやって生み出しているのですか?」という質問をしたことがある。

 

 彼に言わせると、読んでもらうためのポイントはいくつかあるそうなのだが、その中でも大切なことは「本当のあるあるは書かない」ということらしい。

 

 例えば「電車の中でされた嫌なこと」というお題があったとして

 

 そこに〈おっさんに肘鉄をくらった〉だの〈満員電車でポマードや香水がきつすぎる〉などと投稿したとしても、それはありふれていて、生放送の場合ならば、このぐらいの思い付きは貴重な時間を割くに値しないだろう。(実際、メールの選別をしていても同じような話はいくつも寄せられてくる)

 

 お笑い芸人のような想像力とボケの能力を持った人なら「そんなんありえへんやろ」と突っ込みつつもバカバカしい話を作り上げることができるかもしれないが、一般人であるリスナーが何の突拍子もなくそんな芸をみせることが果たして可能だろうか。

 

 かのハガキ職人は決して芸人ではないし、書くことを生業としているわけでもない。

 

 では、どうして彼の投稿は読まれるのか。

 

 それは、彼がネタを書くときに意識している「他人のナルシスな部分をくすぐる」という点にあった。

 

 彼に言わせれば「他人のナルシスをくすぐる」とはつまり『これは自分にしかわからないだろうという感覚をあえて投稿する』ということだそうだ。

 

 (ここでなるほどぉと思えた人は、ハガキ職人の才能有りかもです☆)

 

 あるあるネタなのにどうして自分にしかわからないことを?と疑問に思う方が大半だと思いますので、説明をさせていただきますと

 

 人が共感を得た時というのは「事実」を共有することではなく「気づき」を共有した時のこと

 

 なのだそうだ。

 

 たとえばハガキ職人の便りは次のようなものだ。

 

「満員の通勤電車で、イヤホンから漏れるベートベーンの第九を一時間近くリピートして聞かされた」

スマホで映画を見ていたら唐突に濡れ場のシーンになり、それが思いのほか長くて真顔で画面を見続けていた」

 

などなど。(このネタで何のラジオか分かったあなたは相当なラジオフリークです)

 

 野暮を承知でこのネタを分析してみると、次のようなボケの要素になる。

 

一つ目は

①音漏れが嫌だったという事実に加え、さらに第九を聞かされるという辛さ。

②興味のないオーケストラは確かに苦痛かもしれないという気づき。

③朝っぱらから第九をリピートしている人間がいるという意外性。 

といったところ。

 

二つ目は

①車内の唐突な濡れ場が気まずいものであるという「気づき」

②嫌だったことの対象が人ではなくモノであるという意外性。

③周りの目を気にしながら平静を保とうとする、自分を下げる笑いであること(自業自得のネタは、自分ごととしてとらえやすい)。

ぐらいかな。

 

そして、どれもが「自分には理解できる」というある種の「文化的な自分を誇る部分」に関連した高次の笑いを含んでいる。

 

 つまり「あるあるネタ」とは、単なる事実ではなく「私にだけは分かるあるあるネタ」のことなのだ。

 

 肘鉄やポマードが読まれない理由が分かっていただければさいわいです。

 

 そしてこの”他人のナルシスをくすぐる”というテクニックは、いわゆる自己表現をしたいと望む人にとっても役に立つ。

 

 芸術とはそれを理解したいと望む人がいてこそ成り立つ。という言葉を、誰だったかギリシャの偉い人が言っていた。

 

 もっと近い例でいうと、エヴァシン・ゴジラなどの庵野秀明監督も「読者のナルシズムをくすぐるような作品でなければ見てもらえない」と語っている。

 

 「独りよがりにならない」というのは創作をする人間にとっての大前提だが、問題はその線引きをどこで行うのかということだ。

 

 自分の妄想が面白いかどうかは、誰かが「この感覚は俺にしかわからない」と感じられるものであるかどうかなのである。

 

 才能やセンスは大切だ。だがそれが発揮されるのは、他人のナルシシズムがあってこそだということを忘れてはならない。

 

 え?なんで今日はそんなに偉そうなのかって?

 

 いま書いたこと全部、師匠の角〇さんの言葉だからだよ!!

 

おしまい。

 

(自分が忘れないために書きました)