歓談夜話

あなたにとって、うまくいかない日があっても大丈夫です。下には下がいて、例えばそれは僕のことです。

『夜警』

 

正直に言おう。

 

僕はこの平凡な毎日に、不満を感じている。

 

己が特別な存在であれと願うことは諦めたとは言え、自分にこそ、できることがあるはずだという思いを、未だに信じてやまない日々。

 

そして、その思いを信じているのに、何もできずにいる自分と現状に対して、憤りと無力感と苛立ちばかりが募っていく日々。

 

大学時代のN先輩から、久しぶりに連絡がきたのは、なにか、いつもと違うことが起きはしないかと待っていた、そんな時のことだった。

 

2年ぶりの通話のなか、以前と変わらない飄々とした口ぶりで、N先輩は言った。

 

「バーでも、いかない?」

 

夜9時に都内で落ち合うと、その口調が少しも変わっていないのと同じように、先輩は特に変わった様子はなかった。そしてそれは、大学をドロップアウトしてしまった僕にとって、何故だか少し嬉しいことのように思えた。

 

先輩は、開口一番、連れて行ってくれるというバーの候補をいくつか教えてくれた。

 

「美味しいバーボンのお店と、レンブラントの夜警をみながら酒を出してくれるお店、どっちがいい?」

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『夜警』は、17世紀半ばにレンブラントによって描かれたもので、長い間、表題通りに夜の状況を描いていると思われていた。けれど最近になって、その絵の暗さの原因が変色したニスによるものだということが判明し、なんとこの絵は昼間の様子を描いたものであるということが明らかになったらしい。

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繁華街の風俗街のさらにその先の雑居ビルのなかに、そのバーはあった。

エレベーターで七階に上がると、入ってすぐ目の前に入り口あり、『Bar 夜警』と書いてある。重たい扉を開けて店内へ入って行くと、そこは雑多な街の中にあるということを忘れてしまうほどに、落ち着いた空間だった。僕たちは確かな足取りでこのバーにやってきたというよりは、都会迷宮を彷徨った末にやっとのことで流れ着いてきたのだ、という表現の方が近いものがあるなと思った。

 

6席ほどのカウンターには手前のほうに1人先客がいて、僕と先輩は1番奥の席に着いた。

 

『夜警』は、座っている僕たちのすぐ目の前にあった。その絵はオレンジ色のピンライトを浴びて、灯の少ない店のなかで、薄暗く不気味に浮かび上がっている。背景に、プッチーニの『誰も寝てはならぬ』が大きめの音量で流れていた。

バーテンダーがオーダーを取りに来ると、先輩は「スコッチ、ピートの少ないものをストレートで」と言った。僕は続いて、ジャックダニエルオンザロックで注文する。

 

 ストレートグラスに注がれたウイスキーを眺めながら、『これとは違うけれど、マンハッタンというカクテルは、夏の石原さとみのリップの色なんだ』と先輩は言った。人の顔のパーツについて深く考えたことの無かった僕は、その意味を深く理解するよりも先に、石原さとみの口紅が、自分の唇の上にのっていることを想像した。

 

他愛もない会話が二時間ほど続いていた時、なんの前触れもなく、僕は誰かに見張られているかのような視線を感じた。先客は飲みつぶれて眠っていて、N先輩はと言えば、つきだしの無花果を美味そうに食べている。あとはバーテンダーの他に人はおらず、勿論彼の目線も、僕ではないまた別のところへと向いていた。

 

それじゃあ、この張り付くような視線は、いったい誰のものなんだろうかと思いながらジャックダニエルを飲むと、持っていたロックグラスがからんという乾いた音を立て、僕はふと手元を見た。

 

煌びやかなカットの施されたグラスの先、水滴に濡れた硝子の向こう。

 

そこには、『夜警』があった。

 

僕はその絵に、店に入って来た時の印象とは異なるものを感じた。これは、そう、前よりも…明るすぎる。まるで夜から昼間へと変わったように、『夜警』の明度は増している。

 

グラス越しに、変化したその絵を眺めていると、どうしてか腹立たしく、同時に悲しい気持ちになった。

 

 こんなにも明らかな変化を遂げているのに、自分だけが気がついているその理由が、僕にはわからなかった。

 

今この時、自分が人とは違うものを見ているのかもしれないという実感は、僕の心の中にある孤独の存在を、残酷なほどに知らしめた。

 

気を紛らわせようと、水っぽくなったジャックダニエルを流し込む。すると『夜警』は、初めに見たときと時と同じように、もとの夜の様子に戻っていて、またひっそりと暗がりの中に浮かび上がっていた。そして、誰かに見られているという感覚も、どこかへと消えてしまった。

 

僕は不意に、「大切なものは、目に見えない」という星の王子さまの一節を頭に思い浮かべた。

 

 先輩はテーブルにあった1つだけ残ったレーズンバターを口に入れると、「じゃ、帰ろうか」と言った。僕は無言のまま頷き、店からの去り際に、「ひとは、自分が見たいものを見るのです」とバーテンダーが言った。そして、さようなら、と彼は僕たちを見送った。さようなら、 と僕たちは返事をした。

 

 駅まで戻ると、ネオンの光に溢れた建物が立ち並んでいる。

 先輩は僕に千円札を渡しながら、タクシー代ならぬ電車代だと言って笑った。

「無事に帰ってこられたら、使っていいよ」

また近いうちに会いましょうという挨拶を交わして、改札口の前で、僕たちは別れた。

 

 先輩の丸い形をした頭が駅のホームに吸い込まれていくのを見送った後も、絵のことがどうしても頭の中から消えていかなかった。

自分の外側にあるものに触れたことによって生まれた感情を、放って置くべきではない。

僕はきっと、あの『夜警』に立ち向かわなくてはならない。そしてそれこそが、自分にしかできないことなのだ。

 

再び来た道を戻り、繁華街の風俗街のさらにその先の雑居ビル内を目指し歩く。ついさっき乗ったばかりのエレベーターに乗り、『Bar 夜警』のある7階へ向かう。

ドアが開いて、フロアへでた。 

けれど、そこに店への入り口はどこにも無かった。

 バーの名前が書いてある扉さえ消えてしまっていた。細長い廊下が続いているだけで、その先にはトイレがあるだけだった。

『Bar 夜警』は、忽然とその姿を消して、二度と僕の前には現れなかった。

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黒服をきたキャッチの男たちを無視して、夜中の繁華街のなかを進んでいく。

今日のことのいくつかについては、疑問はやまないままだったけれど、自分の心のなかで、わかったことがひとつだけあった。

 

 あの店がもう現れてこないのと同じように、僕の中の、ありふれた日々への不満は消えていた。

 

 手の中には先輩に渡された千円札があり、そのことが、さっきまでの出来事は、夢ではないという確信を持たせた。

 

どうやら無事に、帰ってこられたみたいだ。

僕はそうしてまた一歩、夜の街の中に踏み出した。

 歩きながら看板や広告のある建物たちを見上げると、一帯のビルは案外背が低いということに気がついて、夜の都会の、意外な空の広さを知る。

 温く風が雑踏を撫でていき、どこか遠くのほうで、警笛が鳴っているのが聴こえた。

 

おしまい。